そうして現在、あれから一年後――三年生の夏。一時期はテニス部をやめようかとも考えたが、そうそう大好きなテニスをやめられるわけがない。
しかし、とんでもないことが起きた。
私が監督から直々に、部長に選ばれてしまったのだ。
私はみんなに恨まれていることを知っていたから、断った。しかし、君はしっかり者だから、などと適当なことを言われてやることになってしまった。
部長が頼りないと、チーム全体の士気が下がってしまうのと同じで、信頼のない部長のいるチームは弱くなってしまう。そこで初めて私は危機感を感じた。今のパートナーは由紀子ではない。しかし、由紀子の件で私を嫌いになった人の一人だった。今までにあった大会ももちろん勝てるはずがなく、かつて強豪校だった私たちのチームは、瞬く間にその栄誉ある称号を失っていった。
部としては機能している。しかし、部員たちから、熱気ややる気といったものが一切感じられないのだ。こんな人のもとでスポーツをすること自体が嫌だ、というように。
それは、私自身の存在を否定されているに等しかった。
だけど、このままではいけないと思った。
だから、監督には内密に、ニ・三年生だけでミーティングを行った。雨の日、普通は三時間の練習を雨のため、一時間弱の、中での筋肉トレーニングに変更した際に、余った時間で行ったのだった。
「私がみんなに指示されていないのは知ってます。けど、このままでいいわけがないですよね?」
みんなは私を見ているようで、見ていない。視線は私に向けられているのに、心は全く私に向いていない。私は幾分か口調を強くした。
「私の嫌なところ、駄目なところを言ってください。できるだけ改善します」
私は辺りがざわついたり、あからさまに眉を顰めてヒソヒソ話を始めることを想像していたのだが、予想に反してミーティングを行っている教室内は静まり返っていた。それは『無気力』からくるものだった。一年も経てばいろいろなことが思い出になってくる。反感を買うようなことをしたのはあの一回限りだし、会話もしなければ遊んだりもしない。普段あまり接触のない人を、なんとなく、「みんなが嫌ってるから、じゃああたしも嫌うか」という感じのノリで恐らく私を無視しているのだろう。
やっと気がついた。嫌われているというか、私に無関心なんだ、みんなは。
「別に」
という声が聞こえた。
「別にぃ〜?」
と、まだ別の声が聞こえた。
「ってかさ、自分がこんな状況作っといて、今更そんなこと聞かれてもさあ」
という声も聞こえた。その言葉にみんなが急に反応して、「そうだよねえ」と囁きあった。
――ああ。
誰でも良いんだ。
ただ、日々の鬱憤を晴らすためなら……例え別に私のことをもうなんとも思ってなくとも、過去の罪をなすりつけて悪口を言い合ってストレスを開放できるなら……誰だっていいんだ。
私は、急にざわつき始めた教室内を見渡して、漠然とそう思った。
「自分が何言ったか、忘れたわけじゃないっしょ? よくそんなこと言えるね。まんまと部長にまでなっちゃって」
はっ、と鼻で嗤う、誰かの声が聞こえた。
「みんな、テニスが好きじゃないの? テニスが好きだから、テニス部入ったんじゃないの? 私が部長だということが気に食わないなら、私の実力を超えるほど練習したらいいじゃない」
さすがにイラついて、少し挑戦的な口調になってしまった。反応は目に見えているのに。
「あんた、マジで自分が強いと思ってんの? 絶対由紀子の方が強いし」
「実力だけじゃ部長は務まらないと思う。統率力とか、そういうのも……」
「統率できてないじゃん」
けらけらと誰かが高笑いした。その通りだと思ったから、反論できなかった。悔しいけど、言っていることは事実なのだ。
「ってかさあ、いい加減気づきなよ」
私は耳を塞ぎたくなった。握り締めた拳が震える。涙は絶対に流すもんかと、唇をぎゅっと結んだ。俯いては駄目だと、必死でみんなを見つめ返した。
「あんたがいるから、部活楽しくないんだよ」
――でも、駄目だった。
俯いた。拳から力が抜けた。涙がこぼれた。開いてしまった唇から、嗚咽が微かに漏れる。
「じゃあさ」
震える声で言った。もう自棄だった。自分はどうしてこんなに居心地の悪いところにいるんだろう。どうして自分は私を見放した仲間のためなんかに動かなくちゃいけないんだろう。
「私が…………」
私がいなくなれば、みんなは楽しくテニスができるの?
そう言えなかった。言い切る前に、自分から席を立っていた。ミーティングがあるからと、呼び出して座らせて監督なしのミーティングを勝手に開いたのは私だ。それにみんなはちゃんと緊急にも関わらず集まってくれた。なのに勝手に飛び出して帰るのは――と思い、ドアに手をかけた状態で、動きを止めた。
もう、嘲笑とか罵倒とか聞きたくなかった。
ドアに手をかけた状態で言う。
「……テニス、私がいると楽しくなくなるの、知ってたよ。由紀子はそのことで私と同じくらい責任感じてるのだって知ってた。みんなが私のことを嫌いなの、知ってた」
なのに。
「私が一番悪いのに、私は一番好きだったんだ、テニス」
ごめんね、って言いたくなかった。
「私ね、やめたくなかったんだ。これだけは。部員のみんなには迷惑かけちゃったけど……今まで私のテニスに付き合ってくれて、ありがとう」
謝罪よりも感謝。「ありがとう」という感謝の言葉は、「ごめんなさい」という謝罪の言葉より、何倍も嬉しくて、何倍もありがたいものだから。
今のみんなに、それが当てはまるかはわからないけれど。
私はドアを開けて、一歩目を踏み出した。
「待って」
もし、万が一にでもそんな言葉が聞こえたら、待ってあげるつもりだった。
だから私は立ち止まった。ゆっくりと後ろを振り返る。
「栄美ちゃん、待って」
みんなが座っている中で、一人だけ立っている人がいた。
由紀子だ。
「由紀子」
「待ってよ栄美ちゃん。部長は栄美ちゃんだよ。勝手にやめるなんて、部長として無責任すぎるよ」
由紀子の表情は切羽詰っていた。
「みんな、一年だよ? もう三百六十五日たったんだよ? どうしてみんなわかってあげられないの」
この言葉は、私意外の部員たちに向けた言葉だった。由紀子は泣きそうな顔をしていた。どうしてだろう、と私はぼんやりと考えた。
「あたし……あたしは平気だよ。だってもう一年も経ったもん。大切なのは過去のことをぐちぐち言うことじゃなくて、みんなで大会に向けて頑張ることでしょう?」
さすがにみんなもムカッときたのか、口を尖らせて反論した。
「なんで! みんな由紀子のこと思ってこんなこと言ってるのよ」
「うん、それはわかる。でもあたしは平気。全然平気。みんな、あたしのこと考えてくれてありがとう」
「そんなの空元気だよ! 部長なのに栄美は由紀子に無理させてるんだよ」
「違うよ」
由紀子の口調はあくまで穏やかだった。
「本当にみんなのことを考えてあげなければ、こんなことしないし、声出せなんて怒鳴らないし、誰か一人怪我しただけであんなに騒がないよ。ただの市民大会でも、入賞したのは自分じゃなくてもあんなに喜んだりしないし、おしいところで負けちゃった人を見てあんなに悲しんだりしないよ」
立て板に水というのはこのことだ。そう思わせるほどにすらすらと由紀子の口からはいろいろなことがいっぺんに飛び出してきた。それから由紀子はもう一度、私に向き直った。
「栄美ちゃん。あたしは全部見てるよ。全部知ってるよ。その上で部長なんだから無責任は許さないって思ってるの。いいことしてそれで終わりじゃないんだよ。そんなカッコイイ終わり方、私から見れば全然カッコよくないよ。失敗してもいいし、前みたいな……一年前みたいな感情だって、急に姿を表すかも知れない。でも、それでいいじゃん! それってテニスが誰よりも好きってことじゃん!」
そこで由紀子は溜め息をついた。それから、じっと私を見つめてきた。言いたいことは言った、後は栄美ちゃん次第だよ。そう言われているような気がして、何だか無駄に肩に力が入った。
気づくと、教室内は静まり返っていた。まるで、ここにいる部員たち全員が私の言葉を待っているかのように。
「…………テニス、は、その……続けたい、よ……」
由紀子が立て板に水なら、私は横板に雨垂れ、といったところか。
「でも、私一人のせいで、みんなの可能性を、奪うわけには、いかなくて……」
「だからッ!」
由紀子は怒ったように――というか、怒っているのだ――イライラと言葉を荒げた。
「そういうのがカッコつけだって言いたいの! 誰かを気遣うより先に、まず自分の気持ちを優先させてものを言ってみてよ! それがどんなに我が儘でもいいよ!」
再び沈黙。
「……え、っと……」
部長に任命されて不安に思う反面、抱いた気持ち。
部長としての責任を担う重みと、そして喜び。
勝った時の、勝利の味。
「テニス、続けたい」
違うんだ、私が言ったんじゃない。口が勝手に動いただけなんだ。
「どうしても続けたい。後ろめたさもあるよ。けど続けたい。大好きなんだ、テニス」
「……じゃ、決まりだね」
由紀子はおもむろに私のラケットバッグからラケットを取り出すと、ぽんと投げてよこした。私はそれを慌てて受け取る。いくらなんでもラケット投げるのは危ないじゃないか、と思って私が顔をあげると、由紀子も自分のラケットをその手に握っていた。
「勝負しよう」
そして唐突に、そんなことを言ってきた。
「勝負して、勝ったらあたしが部長だからね」
みんなもそれで納得するんでしょう? 由紀子はそう呼びかける。みんなが頷く。私もややあって頷く。そっと、グリップの握りを確かめた。
ふと窓の外に目をやると、窓越しでもはっきりわかった。雨が上がっていた。

|