試合は3ゲームで行われた。1ゲームが、基本的には4ポイントで、ただし相手に二点差をつけなくてはならない。つまり、3−3でデュースとなり並んだらどちらかがあと2ポイント連取しなくてはならない、といった具合だ。
通常の公式試合は7ゲームで行われるから、それに比べるとかなり短いと言えよう。
互いのパートナーは、由紀子と私それぞれ、今のパートナーにすることにした。明らかな技術の差、というものがなかったからだ。私のパートナーは、「やるからには全力でやるから安心してよ」と言ってくれた。ちょっと温かい気持ちになった。
――2ゲーム取れば、勝ち。
私はそう自分に言い聞かせて、取得したサーブ権で、サーブを打つ。入る。大会の時には入らなかったのに、なぜ今入るのだろう。しかし悲しく思っている暇などない。すぐにボールが返って来る。私に返って来る。
わたしはそれを打ち返す。ああ、どうかネットに引っかかりませんように。
そう思って打ったボールに威力などあるはずもない。山なりとなって上がったボールは私側のコートを越えてくれたが、相手のコートも越えた。
なんだ、同じじゃない。
「0−1」
結局、あの時と何も変わらない。アウトなんてしょっちゅうだけど、私はあの時の試合と重なった。先輩と一緒に組んだ時。初戦敗退。必死に謝る自分。悔しいはずなのに、悲しいはずなのにいいよと言ってくれた優しい先輩。
由紀子を負ければいいのに、と罵ってしまった自分。
――サーブなんて打ちたくない。もうボールを打ちたくない。
「栄美っ!」
不意に、大声で呼ばれた。
「なんでそんな球打ってるのよ! 何で逃げるのよ! 全身全霊込めて、これが私の限界、魂を込めた球だって、それくらいのボール打てばいいじゃない!」
私のパートナーだった。私は、ただ、受動的にその言葉を聞いていた。
「それとも、怖いの?」
頷くことができなかった。その通りだった。
「じゃあ、やめようよ」
首を振ることもできなかった。ただボールを二球持って、そこで私自身の機能がストップしたようだった。
「逃げてばかりのテニスなんて、私、やりたくないから」
さあ、どうするの? そう瞳で問われた。私はどうしたいんだろう。自分に問うてみた。やめたくなかった。試合も、部長も。
ふるふると緩く首を振ると、パートナーがほっとしたように溜め息をついた。
「栄美の球、こんなもんじゃないでしょう。膝、ちゃんとまげて。ラケットを早く引いて。腰落として。思い切り首までラケット振って。声出して。素直にボール打って」
私はその子の言葉をゆっくりと反芻する。こんなのテニスの基礎だ。私は基礎すらできていなかった。何が私を不安にさせるんだろう。
不安になるようなことは何もなかった。
だったら、どうせ負けるのなら、精一杯プレーして負けた方がいい。絶対にそうだ。私は心の中で頷く。そしてパートナーに感謝した。ありがとうって言ったら、根性見せてよ、と言われた。
――試合再開。
サーブを打つ。入らなかった。ラケットを短く持ち、サーブを打つ。失敗。1ポイント取られてしまった。しかし、私は落ち着いていた。
よく、「自分を信じて」と言われる。でも自分を信じるって、どういうことなんだろう。自分に自信を持つ。それって案外難しいことだ。
「0−2」
次のサーブはパートナーの彼女だった。彼女は確実にサーブを打つ。確実に入る。由紀子が返してくる。実際には落ち着いていられるほどの時間的な余裕はないのだが、私の心は落ち着いていた。
返す。由紀子がまた返してくる。そのボールは、ラインに当たった。入っている。慌てて返す。由紀子はもっと鋭いコースを狙ってくる、私はめいっぱい手を伸ばしてそれを受けた。返す。
体勢が悪かった。完全に後ろに体重が乗っていた。普通、打つときは体でボールを押してやらなきゃいけない。
しかし、それがよかったらしい。ボールは短く、際どいコースへ入り込んだ。そのまま由紀子のラケットを掠ることなく隣のコートへ飛んでいく。
「1−2」
次も彼女のサーブ。由紀子のパートナーのラケットに、当たりはしたが、ネットの手前で落ちた。すごい。そう思った。あんなに速くて確実なサーブが、どうして打てるんだろう。
それと同時に、追い付いた、と思った。
「2−2」
私のサーブ。打つ。入る。打ち返してくる。できればさっきのようなボールなど、例え点が取れても打ちたくない。そんな危険な橋渡りたくない。私は思い切り打った。全身全霊を込めて。
私の魂が込められたボールを、由紀子が返してくる。由紀子も魂をこめてるんだ。そう思った。私は「自分を信じて」打ち返してみる。上手くいった。由紀子が失敗した。ボールはネット手前で失速し、ぱす、ともぽす、とも似つかないような音でネットに引っかかった。私の球が由紀子に通用したんだ。
「3−2」
サーブを打つ。失敗。次にラケットを短く持った後、ふと気がついた。開発途中なので使用するのは控えていたが、使ってみようか。
それは、私が新たに開発したサーブだった。みんな自己流のサーブなのが羨ましくて、私も一目で「ああ、このサーブ強そう」と思わせられるようなサーブを打ちたいがために、サーブを研究して考えていた。密かに練習もしていたが、入るかどうかはわからないので使っていなかった。
そのサーブを……打つ前にいろいろ考えた。失敗したらどうしよう、どうしよう。折角あと1ポイントで1ゲーム先取。失敗したらもう一度2ポイント連取しなければいけない。
でも、やってみることに価値があるって、本当かな。
なら、自分を信じてみよう。
――サーブを打つ。入った! 由紀子は今までとは違うボールの跳ね方に動揺したようだった。あまり高く跳ねなかった。由紀子はボールの軌道を想定し、立ち位置に立っていた。しかし私のボールは予想外の軌道を描いて入ったので、由紀子の体勢が崩れ、前のめりになる。ラケットがガン! と地面に衝突する。そして由紀子自身、そのまま倒れた。
ゆっくり、由紀子は起き上がった。
「あーあ」
その声は、落胆であり、僅かに嬉しそうでもあった。
「体操着、汚れちゃった。それに」
由紀子はみんなに見えるようにラケットを上げてみせる。
フレームに、大きな亀裂が入っていた。
「もうやめよう。みんなわかったじゃない。私は自分を信じきることができなくて、栄美ちゃんはできた。それだけでもう、どっちがキャプテン気質かなんて、わかるじゃない」
再び雨がぽつぽつと降ってくる。まるで、終わるのを見計らっていたように。由紀子は体操着についた泥を手ではらいながら、やけにすっきりした顔で言った。
「よかったね、栄美ちゃん。部長やめずに済んだみたいだよ」
私はゆっくり、その言葉を咀嚼するように噛み締めた。嬉しかった。ただそれだけだった。
自然に拍手が沸き起こる。何の拍手かわからなかったけど、それは自然に、ごく自然に湧き上がった拍手だった。誰も、嫌そうな顔なんてしてなかった。
今だけは、頬に当たる雨も、心地いいと感じることができた。
太陽が顔を出した。どうやら今日は天気雨らしい。
「決めた」
私は不意にそう呟いた。
「由紀子、私決めた」
私はベンチから立ち上がって言った。みんなと、由紀子の視線が私に集中する。
「――Y、Y、R」
「え?」
と由紀子が聞き返す。
「退場……だよね。私は今日で、このテニス部から退場する」
束の間、静寂を破ってざわめきが起こった。でも、と私は付け加えた、ここからが私の決意の、重大なところだ。
「でもね、退場するのは弱虫で傷つきやすくて、何もできない過去の私」
黄色、黄色、赤。YELLOW・YELLOW・RED。私は頭の中で、過去の自分にレッドカードを叩きつけた。過去の私はそれを見て、静かに消滅する。
「私は、変わるよ」
過去に、決別をしてみせる。きっと。
夏という季節が私は、大嫌いだった。
理由は単純明快。『暑い』から。
しかし、それ以外にももう一つ、一つだけ、嫌いなわけがある。
その『嫌いなわけ』を克服した今、私は自由だった。
過去に囚われず、生きていける。そう思えた。
――イエローカード、イエローカード、レッドカード。それは退場であり、それはスタートである。

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