夏という季節が私は、大嫌いだ。
 理由は単純明快。『暑い』から。
 しかし、それ以外にももう一つ、一つだけ、嫌いなわけがある。



 その日は暑かった。でも暑いなんて言っていられない状況であることぐらい、私にもわかった。目の前では、私と同じく息を切らして苦しさに喘ぐ人がいる。
 ――中学生ソフトテニス××県総合体育大会。
 私が今いる舞台は、まさにその大会だった。
「1−2」
 審判のコール。私はサーブを打った。ラケットのフレームに当たり、失敗。続けてもう一度打つ。これは入った。相手が打ち返してくる。どうしよう、どうしようどうしよう。
 私は必死に繋ごうとする。でもすればするほど空回りもする。気持ちが空回りすればラケットだって空回りする。二・三回相手と私とで打ち合いが続いたそのボールは、私のラケットに掠ることなく後ろの壁に当たり、勢いよく跳ね返ってきた。
「1−3」
 パートナーと相談し、位置に戻り、再び審判のコール。
 ラケットを短く持つ。打つ。失敗。続いて二球目。これは入る。相手が私に返してきた。何で私に返すのよ。何で私にボールをよこすのよ。……私はそれを返す。ポーンとボールが弧を描く。それは私側のコートを越えた。しかし、相手側のコートも越えてしまった。
「アウト」
 私はその場にへたりこんだ。ラケットをコートに叩きつける。監督の怒鳴り声が聞こえた。
 いや、違う、怒鳴ったのはお父さんだったっけかな。監督は失望して溜め息ついてたかな。
「ゲームオーバー・ゲームセット」
 終わった。試合終了。負け。4−0のストレート負け。
 私は二年生。パートナーは三年生だった。
 三年生だった。
 ――最後の夏だった。

「ごめんなさい」
 と、私は先輩に謝った。頭を垂れて、うなだれて、ただひたすらに謝った。先輩は涙を浮かべながらも「いいよ、栄美ちゃんのせいじゃないよ」と言ってくれた。私はちっとも嬉しくなかったし、ちっとも安心しなかった。
 周囲の目が気になる。先輩のお母さんは? お父さんは? 失敗ばかりの私を見て、どう思ったんだろう。「もう少し上手な子がパートナーなら……」って思ったのかな。私のお父さんは、お母さんは、監督は、他の先輩達は……。
「ごめん……なさい」
 周囲の目を気にした途端、それしか言えなくなってしまった。本当はもっといろいろ言いたかった。そのいろいろ、を具体的に言うと、
「こんなに弱い私に数ヶ月間、付き合ってくださって、本当にありがとうございました」とか、その類い。きっと、「ありがとう」という感謝の言葉は、「ごめんなさい」という謝罪の言葉より、何倍も嬉しくて、何倍もありがたいものなのだろう。
「本当に……」
 わかっているのに。
「ごめんな、さ……」
 これ以外の、言葉が出てこない。

「栄美ちゃん、元気出しなよッ!」
 不意に、同じクラスの由紀子が声をかけてきてくれた。それまで物思いに耽りながら管理棟の近くを歩いていた私は、「うぁッ!?」というなんとも情けない悲鳴をあげてしまった。
「ゆ、由紀子……。次、試合だっけ?」
 由紀子も私と同じく三年生の先輩と組んでいて、一回戦は突破した。私の敗れた一回戦を突破した。次は二回戦で、しかし相手は超弱小校と呼ばれる学校に所属する人たちだ。組み合わせがよかっただけのただの『偶然』なのか、運も実力のうち、なのか、とにかく順調に行けば、確実に全県に行ける。上手く行けば、ベスト4に入ることができる。
「頑張ってね」
 何だか自分で「今喋っているのは本当に自分なのだろうか?」という気分になった。だって、今の言葉には全然気持ちがこもっていなかった。

 結果から言うと、由紀子は勝った。
 苦戦を強いられながら、それでも勝った。
 3−0の状態からひっくり返して勝ったのだ。例えそれが超のつく弱小校相手でも、それはすごく……とても、意味のある勝利だった。
「おめでとう」
 という私の口から出る言葉に、やはり気持ちはこめられていない。
「次、勝てば全県だね」
「ありがとう、あたし、頑張るよ」
 へへ、と笑ってにこにこしている由紀子は可愛かった。とっても可愛かった。輝いていた。今一番輝いている中学生は誰だ、って聞かれたなら、私は間違いなく由紀子の名前を口にしていただろう。
「私も精一杯……応援するよ」
 にこっと、私も笑い返す。



 ――――負ければいいのに。
 そうすれば、先輩の可能性を奪ったと非難されるのが私だけでなくて済むのに。



「……栄美?」
 由紀子が急に俯いた私の顔を覗き込む。私は呼吸を止めて、息を殺した。
「泣いて……?」
 いるの、と恐らく聞こうとしたのだろう。しかし泣いている私から何かを感じ取ったのか、優しく、慰めるような口調で由紀子は言った。頭に手を乗せて、ぽんぽんと軽く叩いて。
「栄美は、よく頑張ったよ」
 私は由紀子の手を振り払おうかと思った。
「よく走ったし、よく取ったし、よく先輩のフォローしたし」
 先ほどはあった逡巡は綺麗さっぱり、消えた。
 バシッ、という音がして、何が起こったかわからない由紀子に私は一言言ってやった。お世辞ばかり言うのが得意で、私のことを、気持ちを全く理解してくれていないクラスメイトの友達に――ソフトテニス部としての、仲間に、言ってやった。
「私、応援しないから」
「え? あ、……」
「由紀子も負けちゃえばいいんだ! 負けちゃえ、負けちゃえ、負けちゃえぇッ!!」
 力いっぱい、声の限り叫ぶと、私は一目散に駆け出した。恰好悪い。というか、友達として、人として……仲間として、最悪。私はそういった自分に貼り付けられたマイナスのレッテルを取り払うように全力で駆け出そうとした――が。
 すぐ傍に、由紀子のパートナーの先輩がいた。
 振り返って駆け出して、すぐに先輩がそこに立っていた。
 当然のことのように、目が合う。
 双方、最初は全く声が出なかった。それは驚きのせいでもあり、諦め、怒り、悲しみそして裏切り。そんな感情が渦巻いて、心の中で淀んで。濁って、ぐちゃぐちゃになって、ようやく先輩は言った。
「……最低」
 それだけで充分だった。私を追い詰める言葉としては充分すぎるくらいだった。私は駆け出した。何だかやけに身体が熱い。ああ、そっか、日差しのせいか。蝉もそろそろ鳴き出すし、梅雨ももうじきあける。季節が変わろうとしている中で、私だけが取り残されていくような気がした。
 錯覚だと、わかっていても。
 涙を流しても、もう取り返しがつかないと、わかっていても。

 試合が終わったらしい。
 由紀子がテントに戻ってくるのが見えたから、私は慌てて隠れる。由紀子の応援で丁度誰もテントにいなかったから安心していたのだ。個人戦は負け審判だから、審判をせずに戻って来たということは、勝ったのだろう。
 ――由紀子、勝ったんだ。
 しかし、由紀子の表情を見る――と、いうか、物陰から覗く――限りでは、その表情は全然嬉しそうではなかった。むしろ、暗かった。そうして二人はテントに座ると、由紀子が体育座りをしたまま、泣き出した。両腕に顔を埋めて、泣き出したのだ。先輩はそんな後輩の頭を撫でてやっている。その先輩の表情は悲しそうで、しかし怒りが遠くでこっそり見ていてもわかるほど、表れていた。
 何か会話をしているが、遠くからではとてもじゃないが聞き取ることができない。そうこうしているうちに応援していた部員たちが戻ってきて、口々に慰めあうようになった。それからみんなで他の試合を見に行った。みんなみんな、由紀子の肩を叩いて慰めている。
 私のパートナーの先輩は、その中でも、なんだか居心地が悪そうだった。そうしてしきりに、由紀子に謝っていた。
「ごめんね、ごめんね由紀子ちゃん」
 頭を下げて、恐らくそんなことを言っている。
 それを見て由紀子は、
「いいですよ、先輩のせいじゃないですよ」
 と、両手を左右に振りながら言った。
 それでもまだ申し訳ないと思っているのか、先輩は謝ることをやめない。
 どこかで見たことのある光景だなと思いながら、私は強い吐き気を覚え、ネットの置いてある倉庫に駆け込み、ドアを勢いよく閉めた。
 そこには私一人だけだった。
 一人だけの嗚咽が小さい倉庫にこだました。

 ミーティングのため、私が監督を含む円陣の中にこっそり入ると、みんなが一度に私を見た。そして嫌そうな顔をする。中には、あからさまに隣の人とコソコソと何事かを話す人もいた。
 そうして少し落ち着いたところで、ミーティングが始まる。実際、監督の言葉などほとんど耳に入らなかった。入ったとしても、右耳から左耳へ、そのまま抜けていく感じがしていた。理由は、先輩や同級生、そして更には後輩までもの目が怖かったからだ。
 誰かが自分を見ていないか、自分を見て笑ってはいないか、起こってはいないか、嫌気が差してはいないか。いろんな人の表情を観察した。みんなが監督の方を向いているから、それは無意味なことだったのだが。

 帰り道、というか、テントを張っていた場所から駐車場までの道のりの途中、由紀子を「ちょっと」と言って呼び出した。倉庫の中まで二人とも無言で、目すらあわせられていなかった。
「……何?」
 静かに、由紀子は言った。私は意を決して、膝に頭がつくんじゃないかと思うぐらいに頭を下げた。これで今日二度目の謝罪だ。
「ごめん。私、悔しいって気持ちに流されて、由紀子にあんな……あんな、酷いこと、言っちゃって」
 声が震えた。
 頭を下げていると相手の目を見られないので、ずっとこのまま、由紀子がここを出て行くまで頭を下げていようと思った。
「全県出場、オメデトウ」
 ありがとう、という由紀子の返事はなかった。そのままたっぷり十数秒間たって、ようやく由紀子が口を開いた。
「Y、Y、R」
「……え?」
 初めて耳にする暗号のようだった。私は由紀子の言った「YYR」の意味がわからず、由紀子に聞き返す。その時に思わず顔を上げてしまった。すると、由紀子は、悲しそうな表情で呟くように言った。悲しそう、というか、苦しそうだった。涙を浮かべて、消え入りそうな声で言う。
「――って、知ってる? YELLOW・YELLOW・REDの頭文字とっただけなんだけど」
 黄色、黄色、赤。YELLOW・YELLOW・REDの表すもの、それは。
「退場」
 私は息を飲んだ。
「退場、だよ。栄美ちゃん」
 ……私が呆けているうちに、由紀子は倉庫を出て行ってしまった。あとには私と静寂が取り残される。何だかすごく悲しい気分だった。
 由紀子の言った「退場」の意味は、私にはよくわからなかった。私は、何から退場なのかがわからなかったのだ。由紀子の中からなのか、テニス部の中からなのか、友達の中からなのか。恐らく全てだろう、と私は思っている。
 ――そっか、退場か。
 退場、ね。私はもう用済みだ。
 最低なやつは、消えれば一件落着だもんね。