事故は、二ヶ月前に起きた。
 私の今住んでいるアパートの近くには、実家よりたくさん本屋がある。そのことを嬉々としてジョウに報告したら、「いいなあ。行きて」とメールが返ってきたので、「今度の週末、来いよ」とメールすると、「行く。電車で行く。待ってて」と返事がきた。
 私は、自分のアパートの地図をファックスし、当日は部屋の中で待っていた。迎えに行かなかったのは、方向オンチのジョウがあの地図だけで来れるだろうか、という意地悪な心からだ。こんなことができるのは兄の特権だよな、と本を読みながらしみじみ思っていた。
 しかし、来るのが遅くて、最初それはジョウが道に迷っているせいだと思った。だが、本当に遅いな、と流石に不安になった時、電話が鳴ったのだ。
 母さんの泣きそうな言葉に、私は思わず受話器を取り落としそうになった。しかし、それをこらえると母さんに質問攻めをした。
 どういうことだ。まずそれから始まり、どこで、どんな風に、どうして。
 ……今思うと、残酷なことをしたと思う。泣くばかりの母さんに苛立って何度も何度も声を荒げた。本当のことを言ってよ、母さん。私は母さんの気持ちなど、これっぽっちも考えていなかった。
 後で病院の人に聞くと、ジョウは救急車に運ばれた時は既に死んでいたそうだ。即死らしい。
 道に迷う前に、タクシーを使ったのだ。そして、そのタクシーがたまたま、事故をおこした。原因は、居眠り運転をしていた運転手の乗った車だった。聞くと、タクシーのドライバーもまた、即死だったらしい。
 ただ問題は、居眠り運転をしていた車の運転手が、生きているということだ。
 怪我を負ってはいるが、大きなワゴン車の、側面にタクシーが衝突したため、真正面からの衝突ではなかった。
 全員死んでしまうよりは、よかったかもしれない。
 ただ、納得できなかった。
 この世は理不尽だ、と思った。
 どうして、命を落としたのがジョウだったのだろう。どうして明らかに悪い奴がむざむざと生き残って、全く関係のない、罪のない人が死んでしまうのだろう。どうして死んでしまったのが――ジョウだったのだろう。
 何で、どうして。
 意味のない自問だけが繰り返される。そんな毎日の中、私は生きてきた。
 その運転手からの謝罪の言葉も、聞かなかった。手紙も、受け取らなかった。直接会いたいと言われた時も、私だけは会いに行かなかった。
 その人を前にしたら、私は彼を躊躇いなく殺すだろう。
 それが、わかっていたからだ。

「それ、やっぱりイタズラとしか思えないぜ」
 私は、同僚の中でも一番仲がいい里崎と飲んでいた。
「まあ、そう考えるのが普通だろう」
 里崎の言葉に同意すると、しかし、やはりそれが気になって仕方がなかった。
「随分タチの悪いイタズラだけどな」
 里崎はそう言って顔を顰める。そしてビールをぐいっとあおった。私はちびちびと酒を飲みながら、そのメールについて考えていた。様々な可能性、そして葛藤が浮かんでは、消えていく。
「里崎。私は、多分、怖いんだ」
「そりゃあ怖いだろ。お前の反応は正しいよ」
 里崎はそう言って慰めるように笑んで見せた。読書が好き、という共通点から仲良くなった里崎は、私の話をいつも聞いてくれて、時に慰め、時に怒ってくれた。
 飲まないかと誘うと、いつもOKしてくれるが、里崎には「特別な人」がいたはずだ。彼女は怒らないのだろうか。いや、里崎のことだから、きっと、全て理解してくれる彼女を選んでいるのだろうな。
 私は、今はそれどころではない。というか、大体、彼女がいるのだったらこんなところで里崎と飲んでなんかいない。
 ――時々、不安になる。どうしようもなく。里崎は親友だ。でも、彼の一番はやはりその彼女だ。私はそのかわり今までは弟を一番にしてきたから、その弟を失った今、誰に頼ればいいのだろう。里崎は優しいから、こうして私の話を聞いてくれる。
 でも、里崎が結婚してしまったら?
 もう、二人で飲むことすらできなくなってしまったら?
 ……私は、どこに行けばいいのだろう。
「……里崎、いつだっけ」
「ん? 何が?」
「お前の……結婚式、だよ」
 私がそう言った途端、里崎はぱあっと顔を輝かせて、「二月だよ」と言った。
 あと、今月も含めて五ヵ月後か。
 それが、私に残された時間なのかも知れない。

「…………ぅ……」
 私は、軽く頭に痛みを覚えて、本を閉じた。たまにあることだ。気がつくと二時を過ぎていた。普段に比べればまだいいほうだ。私は本の世界から引き離してくれた頭痛に感謝し、そのまま寝ることにした。このままいけば絶対に四時まで本から顔を上げないだろう。
「……ん」
 私は、窓越しに夜空を見上げていると、そこに瞬く何かを見て、動きを止めた。星ではないようだ。赤く、何かが赤く点滅している。星と同じぐらいの大きさで、点滅している。
 いつもなら不思議には思っても、それだけだった。しかし、私はなぜかそれに惹きつけられた。猛烈に興味が沸いた。理由はわからない。私は窓をあけ、そっとそれに手を伸ばした。
「……ジョウ?」
 口にして、自分でも驚いた。
 しかし、疑惑は確信へ変わる。
「ジョウ、ジョウなんだろう?」
 手を伸ばす。触れるようにゆっくり。指先が、何かに触れた。
 温かい、誰かの指先。
「ジョウ!」
 私は叫んで、それを握ろうとしたが、その指先はやんわりと離れていった。
 赤い点滅はなくなって、その代わりに今まで触れていた指先が、一瞬だけ見えた。透けていて、夜の美しい色に染まっていた。それはすぐに遠ざかり、すぐに霞んでいき、すぐに消えた。
「ジョウ!」
 私はもう一度叫んだ。危うく窓から落ちるところだった。身を乗り出して、指先を追うように手を伸ばして、落ちそうになってようやく目が覚めた。
「何で……こんなッ……」
 私は膝をついて、絶望の波に飲み込まれないように必死に涙を耐えた。
「なぜ……出てきたりなんか、したんだ……私の前に、どうして……!」
 しかし、耐えられなかった。たった一筋。
 それだけの涙に、込められた思いは、あまりにも強すぎた。

 次の日、数日間開いてなかったメールを開く。
 新着メールがたくさんきている中、目的のメールを探し出した。
『ジョウです』
 これと同じ件名のメールが、もう一通。
 昨日の未明に届いたもの、そして今日の未明に届いたもの。
 私は震える手で、いつかのようにそれを開いた。


 ジョウです。
 三つ目で、そろそろ焦ってきた。手紙は、五枚しかないから。
 だから、言いたいこと言おうとしたんだけど、どうしても思い浮かばないや。
 俺と兄さんは、わざわざ言葉にしなきゃわからないことって、本当はないだろ?
 ああでもひとつ言っとく。
 俺は元気だ!


「死んでおいて……元気も何も、ないだろ……」
 私は、そのメールを削除した。確かに、何もない。今更言葉にしないと伝えられないような気持ちなんて、私は持っていなかった。ジョウも同じだったのだろう。
 間違いない。今なら確信をもって言える。このメールはジョウだ。ジョウが書き、それが私のもとに来ているのだ。最初に、ジョウが言ったとおり。
 そして、今日届いたメールを開く。
 予想に反してそれは、簡潔なものだった。


 俺を探すな!


 ……探すな?
 私は、その言葉の意味を図りかねた。
 今日、最後のメールが届くはずだ。
 その時、この意味がわかるだろうか。
 それとも、これは自分で考えろ、という弟の意地悪か?
 私は苦笑して、パソコンを閉じた。
「今日は、何を読もうか……」
 本棚を探しながら、私は小さく呟いた。その指が震えていることには、気づかないふりをした。今日はきっと、読書どころではない。しかし、いつもと同じ行動をしていないと、不安でたまらなかった。