予想に反してそれは、三時を過ぎても届かなかった。
本を開いたものの、案の定言葉など全く頭に入っては来ず、ほとんどただぼーっとメールを待っているような状態になってしまった。寒かったが気にしなかった。そういえばストーブをつけていないな、と今更ながら思う。いや、温かいと眠ってしまうから私が、自分の意志で消したのだと思い出す。
それは三時間前のことなのだが、もう意識が薄れて、記憶を失いかけている。限界が近いらしい。人間は休みを入れず何かをすることは不可能なのだ。しかしここで眠ってしまったらその間にメールがきてしまう。そう思って、ずっと本を開いたままだった。しかし、やはりページは思うように進まない。いつもなら一冊読み終わっていてもいい時間だ。それが、今日は半分もいっていない。
同じ文字が二個ぐらい、重なって見える。焦点を合わせようとしても、なかなか上手くいかない。一瞬だけ合って、またすぐに霞む。
このぐらいの時間なら、まだこういった現象は起きないはずだ。しかし、極度の緊張のせいか、いつもより早く疲れてしまったらしい。私は軽く舌打ちをした。
――結局、その日はメールはこなかった。
私は二日目も、三日目も同じようにして待った。メールが届けば、パソコンから音が鳴るはずだ。その音だけを待ち続けて、もう何日も不眠不休の日が続いている。そして営業課に所属している私は、外回りにいかなければならない。そんな時は、パソコンに届いたメールを携帯に自動的に転送されるようになっている。私は日中にこない確信があったのだが。
そうして、ずっとメールを待ち続けた。
しかし、一睡もしていない日が続くと、さすがの私も、疲れてしまったらしい。
五日目の朝、とうとう倒れた。
朦朧とした意識の中、私は必死でパソコンに手を伸ばした。ここで意識を失ったら、そのうちにきっと、弟から最後のメールが届いてしまう。それじゃ、意味がないんだ。
結局、伸ばした指先がパソコンに触れることはなく、冷たい板の間の感触を全身で味わいながら、私は意識を手放した。
「探すな、って言ったのに」
声が、聞こえる。
「兄さんの、馬鹿」
ジョウの声だ。
本気で怒っているわけではないのが、声音だけでわかる。
「俺もう、知らないからな」
ふん、と顔を背ける姿が目に浮かんだ。
「今回は、特別。次回なんか、ないけどさ」
苦笑いを交えた声が聞こえて、消えた。それっきり声は聞こえなかった。
きっと、呆れている。私に。ジョウは、いつだってそうだ。私を見て、呆れて、そして小さく、笑うんだ。
二人で。
手の中で、携帯が震える。
メールが届いた。
私は、近くにパソコンが置いてあったのでそちらを開き(スタンバイにしていただけなのですぐに起動した)、メールを確認した。
ごめん。ありがとう。さよなら。
私は、そのメールを見ると、すぐさま窓を開けた。そこで初めて、ここが自分の部屋で、しかもベッドの上なのだということに気がつく。
窓を豪快に開けると、冷たい風が吹き込んできた。今は夜らしい。外はいつかの空のように真っ暗で、私は見を乗り出して探した。
ジョウを、探した。
案外それは、あっさりと見つけた。
赤い星。
「ジョウ!」
私は思い切り叫んだ。声は静寂に包まれた夜の街を切るように響き渡った。これだけ大声を出しても誰にも咎められない。そんな田舎町でよかったと場違いにもそう思う。
「ジョウ! お前の事情は知らない。私はただ、お前に伝えたいことが……伝えなければいけないことが、ある」
大きく息を吸い込んだ。
新鮮だと思っていた冷たい空気が、今は身を切り裂くようだ。
悲しみ。悔しさ。世の中はどうしてこうも理不尽なのだろう。そういった思いをこめて、私はあらん限りの声で叫んだ。
「馬鹿野郎!」
赤く明滅する星は、戸惑ったように一瞬だけ、その動きを止めた。しかしまたすぐに、点滅し始める。きっとそれは、自分を示すための目印なのだ。
「謝るくらいなら、別れを告げるくらいならどうして私にあんなメールをよこした! 二度目の別れが、一度目よりどれほど辛いのか、お前はわかるか。残された者の痛みを、お前はわかるか!」
夜の色に、飲み込まれそうになる。私の中にある、あの時からずっと在る、絶望を引きずり出して、私すら飲み込んでしまいそうだ。しかし、私は赤い星だけを見つめた。
『俺、生まれ変わったら星になりてえな』
何故?
『だって、星なら見えるだろ。みんなが』
――――ジョウは、浅はかだった。
しかし、それは優しさなのだ。
「……わかって、いるよ」
謝っているということは、ジョウも気づいたのだ。これでは、別れが来た時に余計辛いだけだと。最初から大人しく、消えているべきだったと。
ここにあった、かつての自分の居場所は最早潰えてしまったのだと。
急に突き放すようなメールが来たのは、それに気づいたからだったのだ。辛い思いを私がする前に、関係を断ち切ろうとしたのだ。もう、時は遅かったのだが。
「ジョウは、ただ愛していたんだ」
この世界を。だから留まりたいと思った。何らかの方法で、この世界と自分を繋ぎとめておきたいと思った。ただ、それだけ。
「……いいよ。私は、あの悪夢の後のジョウの言葉を聞けて、よかったと思っている。罪悪感とあの運転手への殺意で押しつぶされそうになった私を、助けてくれたのはジョウだ。多少の苦しさは、我慢するさ」
私はもう、ほとんど囁くような声でいった。
「……悔しさ、は。飲み込むことにする。だからジョウは……消えろ」
胸がきりきり痛む。ジョウは相変わらず明滅している。しかし、それも段々弱々しいものに変わっていった。
「夜が、お前を受け止めてくれる。夜の闇の中に、溶けて消えるんだ」
星が、突如消えた。
そして、ふわりと私の目の前に、実体のない何かが現れる。
それが何なのか。わかっているくせに、私は心の奥に眠る寂しさから、それに手を伸ばした。
するりと、指先が交わる。掴もうとして、とうとう掴めなかった。
「ジョウっ」
思わず名前を呼んでしまっていた。
「ジョウ!」
行くな、と言ったらジョウは、消えないのだろうか。
違う。
消えるのは宿命だ。私に言われなくとも、いずれジョウは消えていた。行くな、と行ったところで、ジョウを引き止めてしまった後味の悪さが残るだけだ。お互いに。
「……お前は、幸せだったよな?」
気づけば、縋るように、問うていた。
――答えは、夜の闇に溶けたジョウからは、返ってこなかった。

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