次の日になってもやはり、夏月が帰る気配は全くなかった。
「……俺、大学行くけど」
「どーぞ」
「メシ、ちゃんと食えよ。せっかく作ったんだから」
「あいよー。そんじゃ俺、メシ食ったら兄さんのエロ本探して待ってるわ」
笑いながら言う夏月を小突く。緋月は堂々と言い切った。「俺はそんな猥褻な本など持ってはいない!」そしたら、
「それも健全な大学生としてどうかと思うけど……」
一蹴。
「……とにかく! 俺は行ってくるからな!」
緋月はそのままドアを開け、鍵を閉めると、ドタドタと階段を下りていった。鉄製の階段は思った以上にうるさくて、憂さ晴らしに強く踏んでやったのに恥ずかしくなった。情けない。
――緋月は、高校は一応陸上部に入部していた。ショートスプリンターとして頑張っていたが(成績は……ともかく)、大学でやる気は最初からなかった。そのためサークルにも入らず、授業が終わったら真っ直ぐ家に帰ることができるのだ。自動車学校がある時は別だが。
「ただいまー」
と言いながら緋月は鍵を開け、中に入る。夏月は部屋の中で寝ていた。布団を敷いている辺り、眠くて自分の意志で寝たのだろう。緋月はちっ、と小さく舌打ちをした。あまり料理が得意ではない……というか、むしろ不得意な緋月は、今日の夕飯を弟に頼もうと企んでいたのである。さすがに気持ちよさそうに眠っている弟を無理矢理起こして奉仕をさせるほど緋月は鬼ではない。
緋月が仕方が無く台所に立つと、今日の夕飯は夏月の嫌いなものを作ってやろうか……と企んだ。しかし夏月が嫌いなものは緋月も大抵嫌いなので、やめた。変なところで似た兄弟だ。
「しょうがね、今日はハンバーグにすっか」
因みに、ハンバーグは緋月の好物だ。そう考えて、そういや夏月の好物でもあったな……と思い出した。がっくりきて、暫し考えて、やっぱりハンバーグに決めた。
変なところで似やがって。――そう溜め息をついた時、カンカン、とアパートの階段をのぼる音がした。ここのアパートに住んでる他の奴が帰ってきたのかなーとか、緋月がぼんやり考えていると、突然夏月が飛び起きた。そして、一言。
「……生・ハゲが来た」
――――なまはげ、って言いたいんだろうな。うん。
……そこで切るなよ。
で。
緋月と夏月は、母親の前に座らされていた。
「兄さんっ、何で鍵を母さんに渡してるんだよっ」
夏月が小声で緋月に愚痴を零す。「いやいや、普通渡すだろ」と一般常識を口にするも、夏月は全く聞く耳をもたず、小声でずっと「兄さんの馬鹿、馬鹿、ハゲ」と罵っていた。ていうか、最後のハゲってのはなまはげって意味なのか、それとも中年親父に多い現象のことを言っているのか。
「夏月」
ソファに座りながら悠然と二人を見下ろしている母親に、静かに名前を呼ばれ、夏月が肩をすくめる。母の目は据わっていた。夏月は更に首もすくめる。完全に萎縮してしまっているのだ。普段、つっけんどんな態度で、母親に怒られてもそっぽを向いているような夏月が萎縮している!……となぜか夏月の隣に座らされている緋月は物珍しそうに夏月の、主に表情を盗み見る。
もしかしたら、怒鳴らない母親は怖いのか……とも考えてみた。あながち嘘でもないと思う。
「理由をまず言いなさい」
夏月は俯いて、全身で拒否のオーラを発しまくった。流石に母親の前でストレートに原因は言いたくない……といった表情で俯き、顔を上げない。
腕組みをし、足を組み、据わった目で二人を見下ろす母親は、なまはげというよりは……むしろ、悪魔のように見えた。
「緋月」
「は、はひっ」
急に名前を呼ばれて思わず裏声が喉を突いて出てくる。
「あなたは知っているでしょう? 夏月が家を飛び出したわけ」
緋月は知っていると答えようか知っていないと答えようか迷ったが、嘘が今の母親に通用するとは思えない。緋月はびくびくしながら頷いた。
「……だけどやっぱり、言わなくていいわ。私だってわからないほど鈍感じゃないもの」
じゃあ聞くなよ!――と、恐らく同時に二人は心の中でそう思った。
母は組んでいた腕をほどき、膝の隣に置いた。そして、少し身を乗り出す。依然表情は全く変わらず、ただ瞳だけがふっと揺らいだだけだった。
「……私がいなくなっても、いいんでしょ?」
――恐らく、同時に二人は息を飲んだ。
夏月が、全身に憎しみと怒りのオーラを滲み出して怒っている。緋月は信じられない、といった表情で母を見つめる。「母」を見つめる。
「それ、さ。……り、離婚して赤の他人になるってこと、かよ」
緋月が声を振り絞って言うと、案の定声が震えた。夏月は何も言わず、俯いたまま静かに震えていた。
「私は別に、いいもの。あなたたちがいなくても、生きていけるもの。あなたたちは? 私がいなくなれば、生きていけるの? お父さんだけで、生きていけるの?」
押し黙る二人を確認して母は唇の端を吊り上げた。
「毎日三度の料理を作るのは誰? 家中の掃除をするのは誰? 二人の物で散らかったリビングを片付けるのは誰? 学校に通わせたり、いろいろな経費を払ったりするのは?」
おもしろいものを見るような目で、心底おかしいというような口調で、母は二人を責めた。
「洗濯をするのは誰? お風呂を沸かすのは誰?」
「そ、それは機械デス」
夏月が掠れた声で呟く。あ、馬鹿夏月……と思ったが何も言わなかった。こいつは、口が減らない奴だなと思って、内心で溜め息をついた。
「お黙り」
夏月は背中を丸めて、更に小さくなる。しかし、急に立ち上がった。
「……なんだよ!」
夏月は完全に怒りを制御できていなかった。震えていたのはショックのせいではなく、怒りを抑えるためだったのだ。緋月は「やめさせなければ」と大脳とせきずいが判断を下しているのに、上手く筋肉まで伝わってくれない。
「みんな勝手じゃねえか! 自分の理想押し付けといて、自分いつのまにか男作ってて、全部全部俺たち騙してコソコソして、嘘がばれたら権力に頼る。いつもそうだ! もうウンザリなんだよッ」
やめろ。やめろって。――緋月はそう思った。夏月も自分の中で危険信号が鳴り響いているのがわかっているだろう。それは確かに聞こえている。でも止められない。制御できない。
「大体、兄さんの大学だって、勝手に母さんが決めたんだろ? 高校もそうだ。俺の高校だって勝手に決めた。小学校だって幼稚園だってそうだったかもしれない。それが親の特権ってやつか? みんなみんな自分の思い通りにするのか。そうやって俺たちを『育てる』のか。育成ゲームみたいに」
夏月はそこで初めて、口を噤んだ。緋月はそこで初めて、夏月の服の裾を引っ張った。
母さんはそこで初めて、立ち上がって、
――夏月をぶった。
「っ……」
大体予想していたことだ。夏月はぶたれた頬を右手で押さえると、母を睨みつけた。
その場に漂う静寂。怒り、憎しみ、悔しさ。
静かな、雨の音。
束の間、雨の音が三人の聴覚を完全に支配していた。雨の音以外の全ての音が突然遮断されてしまったかのようだ。サアァ、ともザアァ、とも言えぬ音が耳の奥で響き、余韻を残し、また新たな雨を受け入れる。
「…………冗談、よ」
何時間も続いたように思えたその雨の音色を断ち切ったのは、母だった。
「は……」
夏月が放心状態で声を漏らす。
「離婚? 何ソレ。一体誰がするのよ」
「……何、言ってんの?」
緋月が消え入りそうな声で問う。
母は悲しそうな顔をしていた。瞳が潤んでいた。理由はよくよくわかっていたから、二人は俯くしかなかった。夏月は僅かに後悔の色を表情に滲ませている。
夏月は本気で言ったわけじゃなかった。母もまた、離婚なんて本気で言ったわけではなかったのだ。頭に血が上っていて、二人とも我を失っていただけなのだ。気づけばよかった。そう後悔するだけなのに。
「確かに、親には特権があるわ。小さい頃なら好きな服着せたり、可愛がったり、良い子に育つように願ったり、育てたり。でもそれは、義務でもあるのよ」
声は震えていた。緋月と夏月を生まれたその瞬間から見てきた母にとって、夏月の言葉は辛すぎたのだ。
「あなたたちを、幸せにする義務が、私たちにはあるのよ!」
――叫んだ。
そして勢いよく立ち上がった。ソファだったので目立った音はしなかったが、なぜか夏月と緋月はびくりと肩を揺らしてしまった。
そして何も言わず、バックを手に取るとそのままドアを乱暴に開けて出ていく。雨の中、傘も持たずに。ドアを閉める前に一度だけ、こちらを振り返った。
「どこへでも、勝手に行けばいいわ。私は帰る。私は、帰るからね!」
バタン、とやはり乱暴にドアは閉められ、緋月と夏月は呆然と立ち尽くすしか術は無かった。朝の緋月のように大きな足音をたてながら階段を下りていく。その音が聞こえなくなってようやく、「出て行った」という感覚がつかめた。
立ち尽くす。呆然と。今の事態が上手く飲み込めなくて、混乱する。まだのどの辺りで詰まっている。
やがて、緋月が椅子にかけていたジャンパーを羽織った。そして傘と財布を持つと、夏月に「行くぞ」と声をかけた。「追わなきゃ」
「やだ」
夏月はぷい、とそっぽを向いた。
「ガキかよお前は……」
と緋月が盛大に溜め息をついて呆れてみるも、夏月は一センチたりとも動く気配はない。
もう一度、溜め息をつく。
「馬鹿」
緋月は、そう一言だけ言うと、ドアを開けて出て行こうとした。とにかく、これ以上時間を無駄にはできない。行かないのなら無理に連れて行く必要もあるまい。
「……兄さんっ」
夏月が兄に声をかける。緋月は振り返った。
「……待って」
――もう一度緋月は、溜め息をついた。しかし、ちょっと笑ってしまったのも事実である。
行こう。小さく緋月が呟くと、今度は素直に頷いた。よしよし、と言って頭を撫でてやりたかったが(90%の確率で振り払われる)、今はそんなことをしている時間など無かった。

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