――外は、寒かった。
しかし、予想していた寒さよりずっと温かいような気がした。部屋の中が寒かったからだろうか……と頭の隅で緋月が考えていると、夏月が「あ」と小さい声を上げて前方を指差した。そして、その指の指す方向を目を凝らして見つめて、緋月も「あ」と声を上げる。
母だった。ふらふらと千鳥足で歩いている。まるで酩酊しているみたいだ。近付いてみても反応を示さない。雨のせいで声が聞こえていないのか。
「母さん」
小さく名前を呼んでみる。母が反応した。なぜか緋月はほっとしながら母の目の前に立った。傘を差し出して母を雨から守る。
「待って、母さん」
母の瞳はどこか虚ろだが、その瞳に緋月と夏月を捕らえると、疲れたように頭を振った。まるで「何の用?」とでもいいたげで、少しドキッとしてしまった。
緋月が、軽く夏月の背中を押す。夏月も母の目の前に立ち、小さく、
「ごめん」
謝った。
「言い過ぎた」
たった、それだけの言葉。多分伝わる。そんな確信が緋月にはあった。
「…………」
母は、いまだ沈黙を守っている。ひょっとしたら、伝わっていても母の怒りや悲しみを消すことはできないのだろうか、と不安になる。緋月は少し顔を伏せた。夏月は真っ直ぐ母を見つめていた。その表情にもやはり、翳りがあった。
「…………滑稽ね」
長い長い沈黙の後、母の発した言葉がそれだった。
その言葉の意味をはかりかねて、二人は母の……なんとも言えぬ微笑を目にしながら、その言葉の意味を促した。
「小学生みたいだわ。喧嘩をして、先生に怒られたら素直に謝って、はい、一件落着」
母が疲れたように笑う。
「私は謝らない。私は悪くない。謝ってくれたことにも感謝なんか絶対にしない」
「母さ――」
「でも」
名を呼ぼうとした夏月の言葉を遮って、母が言った。表情を崩さぬまま。
「雨の中を、追いかけてきてくれたことには感謝してあげる。正直、追いかけてこなかったらどうしようかと……思ってた。次の日からどうしていいのか、きっと混乱するだろうな、とかわかっていながら飛び出してきて……ちょっと今、安心してる」
笑った。それは疲れた微笑みなどではなく、緋月と夏月も顔を見合わせて、笑った。もっとも、二人の笑みは大分疲れたものではあったが。
「は……はいひんかいしゅう?」
あえて平仮名で言ってみた……わけではない。驚きのあまり、素っ頓狂な声を出してしまっただけだ。緋月は慌てて夏月を見る。すると、夏月も同じくあんぐりと口をあけたまま固まっていた。
……かと思うと、俯いて自分の勘違いを恥じた。
「話していたのは本当に近所のおじさんよ。まあ、確かにパワフルで、ダンディなジェントルマンだとは思うけど、残念ながら私の趣味じゃないわ」
そう説明する母はどこか楽しそうだった。予想通りの反応をする二人を見ておもしろがっているのだ。緋月は溜め息をついた。この前より数倍は滑稽に見えるに違いない。
――緋月は、一時帰省していた。お盆までは帰ってくるなと言われていたが、こんな状況になってはいち早く母の口から説明が欲しいものだ。幸い隣の県だったので、週末に帰ってくることができた。
「楽しそうに笑って何かを話していた、とか。小さい声で何かを話し合っていた、とか。全部夏月の妄想でしょう」
妄想、とはっきり言い切られて、夏月はますます頬に朱をさし、俯く。緋月は何だか少し可哀想に思えてきたが、仕方がない。こればかりは夏月の完全な思い違いだ。
「廃品回収が六月十八日にありますよ、ってこと」
「そ、そんなのあちこちに貼ってあるポスター見ればいいし、そのことの詳細だって町内の家全部に配られるはず、だし……」
夏月は一応反論を試みるも、母の笑いに一蹴されてしまい、また俯いた。
「私、毎回廃品回収でも雑誌とか外に用意しておかないのよ。紙とか家に届いてもね、他の広告と一緒に、いつも捨てちゃうし」
「か、確認ぐらいしろよ!」
と緋月が言うも母は悪びれた様子もなく、
「それに、電柱に貼ってあるポスターなんてわざわざ見ないわよ」
なんて言っている。
「でも、それだけで電話してくるかな普通? 夏月も俺も、もう小学校はとうに卒業した訳だから、町内子ども会の役員とかでもないだろうに」
「電話してもらえるように頼んだのよ、私が。じゃなきゃ夏月が毎週買ってくるヒップだかホップだかステップだかが溜まっちゃうじゃない」
――それは「ジャンプ」のことを言っているのか?
夏月の性格の悪さはきっと母さんからだ……と、緋月はこっそり心の中で思う。無論、思うだけで絶対に口に出すなんて命知らずなことはしないが。
「ホント、下らない理由で家出しちゃったわね夏月。まあ、一ヶ月もたてば武勇伝、または笑い話として友達に披露できる日もくるんじゃないかしら」
せせら笑いは侮蔑の色を含む。まるでいつものお返しとばかりに。夏月は反論の余地もなく俯いている。緋月はそんな夏月が本気で可哀想になってきた。しかし、やはり自業自得だから何も言わないが。
「……、さい」
緋月と母が同時に「は?」と聞き返した。夏月の言葉がよく聞こえなかったからである。
「……ごめんな……さい」
俯いたまま囁く程度の小さい声で、それも僅かに掠れてはいたが、夏月は確かに今、母に向かって謝罪の言葉を口にした。
緋月はめずらしいものを見るような目で(実際めずらしいのだ)夏月を見、母は――
「あら、謝る気があったの」
と、言いながら、優しそうな目で――――はなく、勝ち誇ったような目で笑みを浮かべた。
「それじゃあ、これから一週間……いえ、一ヶ月。償いとして夕ご飯の茶碗洗いと、朝食を作ってもらおうかしら。朝食作るには朝早ーく起きなくちゃいけないのよ? 自分も食べなきゃ部活に遅刻するし、その他に家族の分も作らなくちゃいけないし。緋月も帰ってきたからね、自分と、私と、緋月と、おばあちゃんと、おじいちゃん。五人分しっかり作ってね」
あ、それからおばあちゃんとおじいちゃんはあまり固いものが食べられないからそういうものは作っちゃ駄目、じゃがいもとにんじんはよく火を通す、二人の好みで卵焼きは甘い方――などなど、母は嬉しそうに語っている。夏月は、それに屈辱を受ける、というよりも毎日毎日、料理だけでそんなにたくさんのことに気を遣いながら生活していたこと……そして、それを当たり前のことのように思いながら過ごしてきたことにショックを受けているようだ。
「緋月」
「へ? あ、はい!」
我関せずとばかりに傍観を決めていた緋月は、急に母に呼ばれて驚きながら返事をする。
「あなたも手伝いなさい。夏月が来ても私に連絡もしないで匿った罰よ」
「それだけで!?」
とばっちりだ……という言葉を必死で飲み込む。
「返事は?」
「……へーい」
我ながら気のない返事だ。
「返事ははい、でしょう?」
「はいッ!」
もうこうなったらヤケクソだ。緋月は叫んでやった。
それから二人は開放されたものの、開放された気がまるでしなかった。これから続くであろうあわただしい日々と、母の余裕に満ちた笑みが鮮明に浮かぶ。それは二人とも同じだったようで、部屋に引き上げた後は各々の部屋に戻らず、夏月の部屋で二人は愚痴を言い合った。
ただ、緋月がそれを幸福だ――と感じてしまうのはあのような騒動が起きた後であるからで、Mであるからではない。断じてそうではない。
夏月もそれは同じらしい。愚痴を言い合いながらも、どことなくほっとした様子が緋月に伝わってくる。恐らく、母が浮気していないと知って一番安心しているのは夏月だろう。そう緋月は思う。いや、緋月も安心しているから、一番、というには語弊があるか。
とにかく、それがわかっているから、緋月はぷりぷりした様子の夏月も、なんだか可愛らしく思えてきた。
――コインは表と裏がある。表をひっくり返せば裏で、裏をひっくり返せば表だ。それと同じように、きっと、表と裏が夏月にもあるのだ。そうやって頬を膨らませて怒るのは、愛情の裏返し――だったりして。
「それは兄さんも同じだろ」
まあそうだけどね、と緋月は軽く首を竦めて答える。
それにしても、否定はしないんだな。

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