時計の針は、気づけば十二時を指し示していた。
 途端、携帯電話が鳴る。
 緋月は、静まり返った部屋の中で突然鳴り出した携帯の着信音に、多少びくつきながらも何とか慌てて手に取った。漫画を読んでいたらうっかり寝入ってしまい、いつもは九時になるとマナーモードにするのだが、それを忘れていた。
「も、もしもし」
『あ、兄さん? 俺俺』
 オレオレ詐欺か? と思って緋月は一瞬身構えたが、相手が『詐欺じゃなくて夏月だよ』と、緋月の心の中を読んだようにそう言ってきたので、電話越しに話している相手が自身の弟――夏月だということを悟る。
「あ、うん。どうした? こんな夜中に」
『俺、今から兄さんのアパートに行くから。ノックしたら鍵開けてね』
「は?」
 緋月がいろいろなことを問いただそうとする前に、それを避けてか、通話は強制的に断ち切られた。夏月の携帯にかけてみたが、電源を切ったらしく、通じることはなかった。
 それから数分後、控えめにアパートの俺が借りている部屋のドアをノックする音が聞こえた。緋月は鍵を開けると弟を部屋に招きいれた。外は雨だったらしく、夏月はずぶ濡れだった。緋月がじっと夏月の目を見つめても、俯いて顔を背けるだけで、自分からは何も話そうとしない。緋月は溜め息をついた。
「……とにかく、今コーヒー入れてやるからそこらへんにでも座っとけ」
「俺コーヒー嫌い」
 あ、そういえば夏月は根っからの甘党だったな、と緋月は思い出すと、「じゃあホットミルクにするな」と言うと、やっと夏月は笑ってくれた。
 そうして二人でホットミルクを飲みながら、とりあえずひとつひとつ聞いていくことにした。まず、どうしてこんなところにいるのか。
「お前、まだ学校夏休みに入ってないじゃん。休み入ったとしてもさ、お盆まで部活は毎日あるはずだろ。母さんから聞いたぜ。だから八月になるまで家に帰ってくるなって。忙しいからってさ。全く、お盆の方が絶対忙しいだろ」
 緋月はそこで自分の愚痴に話がすりかわっていることに気がつき、慌てて軌道修正を試みた。
「と、とにかく。なんでだよ」
「家出した」
「……は?」
 何のためらいもなくきっぱりとそう言って退ける弟を目の前にして、兄として、眩暈がした。反抗期? とも思った。しかしとにかくその理由は何となくわかるような気がした。
「……母さん、か?」
 やや躊躇いがちに尋ねてみると、大当たり。やはり緋月の思ったとおり、親子関係がうまくいっていなかったらしい。緋月が大学に入学してアパートで一人暮らしをする前も、頻繁に――下手をすれば、毎日――母さんと夏月は喧嘩をしていた。その内容は勉強であったり、部活であったり、成績であったりと様々だったが、そのたびに緋月が仲裁に入り、その場を丸く……ではなく、どちらかというと四角くおさめていたのだ。
「何が原因だよ。勉強か、部活か? それとも生活態度か?」
「浮気」
「…………はぁッ?」
 それは緋月としても聞き捨てならないセリフだった。しかし夏月はその続きを言いたがらない。いつもなら詮索は避けているのだが、今回ばかりは聞き逃すことができない。そりゃそうだろう。
 緋月はがくがくと、弟の肩を両手で掴んで揺さぶった。
「どういうことだよ!? 浮気ってなんだよ!? 母さんが浮気してたのか? そうなのか?」
「違う。……って本人は言ってたけど、俺、見ちゃったんだよ」
 何、何を見たんだ! 緋月は声を荒げそうになったが、夜中であることと、隣で人が寝ているかもしれないことを思い出し、とにかくゆっくり、ふーっと息を吐いた。
 しかし、一体夏月は何を見たのだ。緋月の頭の中に浮かぶのは、めくるめくるピンクのいやらしいネオン、そしてやたらくっついて歩くカップル、大金に目をくらませて冴えない親父に媚びる女学生たち……。
 その中で名前も知らぬ、見たことも会ったこともない変な男と寄り添って歩く母親の姿を思い浮かべると、緋月は本気で吐き気がした。軽く口元を押さえる。
 何を見たんだよ。緋月は視線で夏月に答えを促すと、夏月は臆することなく言った。
「母さんがとんでもない独り言を呟いている場面、見ちゃったんだよ」
 そこで緋月は安堵の溜め息をついた。少なくとも、自分の想像していたような自体には陥っていないらしい。
「……なんて、言ってたんだ?」
「『新しいお母さんがくれば、どうせ夏月も緋月も喜ぶんでしょう』……って」
 それは……何というか、危機だ。
「で、それが何で浮気に繋がって、喧嘩まで発展したんだよ」
「その言葉を呟いた後、母さん男の人に電話かけてたんだよ」
 それも……それが本当なら、かなり危機だ。
「それを今日問いただしたらさ。母さんは『近所のおじちゃんよ』って言うんだけど、おじちゃんじゃないよ。だってすっごく楽しそうに話してたし、時々小さい声で何か呟いてたし……きっと愛の言葉だよ」
 夏月は拳を握って俺に迫ってきた。よほど興奮しているのか、鼻息も荒い気がする。緋月は「とりあえず、落ち着け」と、まだコップに残っているホットミルクを勧めた。
「で、会話の内容は?」
「ありゃあデートの約束だね」
「……で、でーと?」
 緋月がしどろもどろになりながら問い返すと、夏月は憮然とした面持ちで、一丁前に腕組みなんかして、多少怒気を含んだ声で言った。
「六月十八日がどうこうって言ってたんだよ。母さんのシステム手帳ちらっとのぞいたら、これみよがしに六月の欄の十八の数字に赤丸つけてた」
 緋月は、軽く眩暈がするのを感じ、寝不足かなとぼんやり思った。ついさっき寝たばかりなのにおかしいな、とも思った。ところで何の話だっけ? と、現実逃避もしたりした。目の前の夏月は憤然とした表情でホットミルクを一気に飲み干した。
 もうホットミルクはぬるくなっている。それを緋月も一気に飲み干した。
「……で、母さんは否定したけど、お前は浮気だ離婚だと怒鳴って逃げてきた、と」
「家を出たのが七時近くでさ。手持ち金もそんなになかったし、最短ルートでここまできた。いやあー、兄さんの大学が隣の県でよかった」
 と、心底安堵したような声で言うので、緋月は全身の力が風船のようにするすると抜けていくのを感じた。雨がざあざあと降っている。屋根に当たって耳障りな音楽を奏でている。この小さいアパートに二人寝るのはきついな、と思ったが(布団ひとつしかないし)、今更追い返すこともできるわけがないので、仕方なく泊めてやることにした。
「そのかわりお前はソファーで寝ろよ」
「えー、つれないなあ兄さん。小さい頃なんか一緒に眠ってたじゃないか」
「黙れ。誰のためにこんな真夜中に風呂沸かしてると思ってる」
「兄さん。風呂を沸かしてるのは兄さんじゃなくて機械だよ。文明の利器ってすごいよねえ」
 あーいえばこーいう。俺がいない間にどんだけ性格捻くれたんだ。あ、元からか。……なんて思ってみる。口に出さなかったのは賢明な判断だ。
「……とにかく駄目だ! 屁理屈ばっか言ってねえで、ソファに毛布でも敷いておけ!」
 緋月は傍にあった毛布を指差して言った。緋月は寒がりなので、何重にも毛布をかぶせて眠るのだ。少し寒くはなるが、一枚くらいどうってことないだろう。
「じゃ、多分これから世話になりまーす」
 緋月は、危うく自分のコップを落としそうになった。無論、洗剤のせいだけではない。夏月が敬礼をする。それからコップを持ってくる。鼻歌でも歌いそうな雰囲気で、そのまま風呂場へ向かう。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待て。お前、ずっとここにいるつもりなのか? が、学校は?」
「そんなこといちいち気にしてたら家出なんてデキマセンて」
 手をひらひらと振ると、そのまま脱衣所に入っていく。扉を閉める。緋月はその場に立ち尽くすしかなかった。
 ――雨が耳障りなくらい降っている。
 あ、いつも耳障りか。