車での移動中、車内は異常なほど静かだった。
もう少しで病院が見えてくる。
「……違うから」
「……何が?」
唐突にそういい出した俺に、母さんが聞き返す。
「有香も俺も、母さんをのけ者にしたりなんか、しないよ」
ただ……と俺は黙り込む母さんの後ろで、付け加える。
「ただ、不器用なだけでさ。俺も、有香も……母さんも」
俺はゆっくり目を閉じた。一、二、三秒。ゆっくり目を開く。よし。強敵を涙腺の奥へ退治することができた。
運転席を見ると、もちろん母さんの後姿しか見えなかったが、僅かにすすり泣く声が聞こえた。
無論、聞こえない振りをしたが。
有香は、死んだ。
有香は、死んでいた。
俺と母さんが駆けつけた時にはもう、死んでいた。俺も母さんも最期の時に立ち会うことができなかったのだ。
悲しみに暮れる前に、俺は妙な虚無感に襲われていた。
俺は何をしていたんだろう。俺はなぜ有香の傍にいてやれなかったのだろう。俺はなぜここに立っている?
俺はなぜ、『有香の死』の隣で泣いているんだ?
「……帰ろう」
俺は俺の隣で同じく表情を無くしている母さんに呼びかけた。
「帰ろう」
母さんは何も言わず、俯いていた。
いや、違う。何か言っていた気がするな。
「有香……有香、ごめんなさい……」
何を謝っているのだろうか。有香に、何を。
「ごめんなさい、有香、有香……!」
きっと、全てにだろう。
有香と俺を信じられていなかったことも、有香を死なせてしまったことも、有香の死に目に会えなかったことも。全部、ひっくるめて母さんが犯した「罪」なんだ。
お兄ちゃんはそうやって私をずっと抱きしめていました。
どうしてでしょう、寒いのでしょうか。きっとそうですね。べちゃべちゃに服が濡れてますものね。
そっと背中に手を回してみると、ふっとお兄ちゃんから力が抜けました。そのままドサリと地面に倒れこみます。
私は驚いて飛び退きましたが、お兄ちゃんはぴくりとも動きません。ただ、おめめだけは薄っすら開いています。顔が赤いです。流石に風邪を引いてしまったのでしょう。
これは大変です。
私はすぐに救急車か、とにかく助けを呼ぼうと近くの店へ駆け出そうとしましたが、お兄ちゃんが何か言ったような気がしたので止まりました。お兄ちゃんの口がほんの少しだけ動いているのはわかりますが、何を言っているのかわからないので、私はお兄ちゃんに近付いてみました。
「……ない、で……」
私は口元に耳が当るぐらいに近づけて聞いてみました。雨音がしきりに私の邪魔をしましたが、どうにか聞こえました。
「連れて、いか……ないで……」
連れて行かないで、とお兄ちゃんは言っています。誰をでしょうか。どこにでしょうか。
「頼むから……連れて……いか、ないで……くれよぉ……」
私は何のことなのかわかりませんでしたが、お兄ちゃんは大切な誰かをどこかに連れ去られてしまって悲しんでいるようです。
なぜこうも悲しくなるのでしょう。
誰かの悲しみというのは、どうしてこんなにも私を打ちのめすのでしょう。私はずっと傍にいたかったのですが、お兄ちゃんの額に何かの拍子で私の手が触れた途端、これはまずいと思い、やはり助けが必要だと店へ全速力で駆け出しました。
お兄ちゃんは目を閉じていました。
救急車で運ばれるお兄ちゃんを見て、私はどちらかというと救急車にばかり目がいってしまうのですが、それは多分お兄ちゃんはこれでもう大丈夫、と安心したからでしょう。
私は病院は嫌いです。白いシーツに白いベッド、看護士さんの白い服にお医者さんの白い服。消毒液の匂いが鼻をつくのです。一度おばあちゃんのお見舞いで行ったことがありますが、白はいい色だとは思いますがあまりにいっぱいだったのでびっくりしてしまったのです。
お兄ちゃん、無事だといいな。
そう私が神様にお願いした途端……でした。
「春奈ッ!」
というお母さんの叫び声が聞こえました。私は振り向いてちょっと俯きました。怒られるかな、と思ったのです。
「春奈! こんなに雨が降っているのに、傘もささないで出かけたら風邪引いちゃうでしょ!」
あーあ、やっぱり怒られちゃった。少し頭の角度を深くして反省を表します。
でもね、違うんだよ。私はお母さんに説明しました。
「あのね、お風邪を引いたのは私じゃなくて、お兄ちゃんなんだよ」
「お兄ちゃん?」
お母さんは眉間にシワを寄せました。
「さっきね、ここでお兄ちゃんに会ったの。悲しそうだったよ。ゆか、ゆかって何回も言ってた。連れて行かないでって、頼むから連れて行かないで、って」
「ゆ、か……?」
お母さんは顔色を悪くしました。
「…………そのお兄ちゃんの特徴、わかる?」
珍しくお母さんが他人に興味を持ったので、私は嬉しくなりました。普段は「そんな人とお話しちゃ駄目でしょ!」と私を叱るのですが、ということはお兄ちゃんに興味を持ったということでしょう。私は知っている、覚えている限りのことを話しました。
「えっとね、白いYシャツに、赤いネクタイしてて、茶色のズボンはいてるの。あとは、おててに、傷があったよ。かすり傷。それからね、目元にほくろがあってね」
「……泣きぼくろ?」
お母さんの表情の変化は、私でもわかるほどでした。「どうしたの?」と私が言うと、お母さんは「行かなきゃ」と言いました。
「すぐ近くに病院があるわね。……行かなきゃ」
そう言ったお母さんの表情は苦しそうで、私は何も言えないまま、ただ頷くことしかできませんでした。
「病院に行かなきゃ。会わなきゃ。話を……しなくちゃ」
まるで悪夢を見ているようだった。
いや、それは悪夢だったのかも知れない。とにかく意識は朦朧としていて、ようやくはっきりしてきたなと思ったら頭痛が襲ってきた。
そっか。俺、公園で……倒れたんだ。
何の関わりもない無垢な少女を前にして、あんな醜態を晒してしまったことに俺は今更ながら後悔した。幸い、その少女は優しい子で、助けを呼びに行ったみたいだが……今時、なんて行動力のある子だろう。将来はきっと立派でいい人になるな。
将来……――
「……有香」
そうだ、有香の将来も、俺は密かに楽しみにしていたのだ。あの可愛い顔は、ただベビーフェイス(と、もう言える歳なのかは甚だ怪しいが)なだけではない。絶対、大人になると美人になる。
有香は今何歳だ? あと何年経てば幼い顔立ちから大人びた表情に変わってくる?
有香は、本当に死んだのか?
……今日死んだばかりだというのに。いや、死んだばかりだから、だろう。時折有香が生きているのではないかという錯覚に囚われる。そしてふいに辺りを見回してみたりするのだ。これは重症だ。
「……クソッ」
くそったれ。ばかやろう。……この世にカミサマなんてものが存在するなら、俺はそいつを憎むぞ、ばかやろう。俺から大切なものをどれだけ奪っていけば気が済むんだ。
母さん。父さん。有香……
俺はぶんぶんと首を振った。すぐに痛みが返ってきて後悔したが。
ふと隣を見ると、誰もいないベッドに、白いシーツが綺麗に整えられている。
「ッ……!」
――瞬間。
吐き気がした。
あれは有香のいた場所か? 有香が死んだからあそこは空いているのか? 名残も残さず、有香がいたという証拠さえ残さず、温もりも、笑顔も、涙も全部全部綺麗に片付けられて。
焼かれて骨になる予定の『死体』なんかいらない……ってか?
ふざけんな!!
「……ぅ、ぐ……」
しっかりしろ、俺。
あそこはどう考えても有香のベッドじゃない。ベッドの位置は同じだが、そもそも……病室が違う。有香の隣のベッド……すなわち今俺が座っているここには、患者がいたはずだ。
有香は、ここじゃない。
「ぐ……ッ」
吐き気はおさまったが、今度は涙が止まらない。熱で情緒不安定になっているのかもしれない。
いや、きっとそうじゃない。最近は泣いてばかりいる。泣きぼくろがあると、涙もろいっていう逸話があって、「前の」母さんにさんざんからかわれたっけな。
は……ははは……。
もう、勘弁してくれ!

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