俺と有香は、普通の兄弟としてはめずらしく、仲がよかった。小さい頃は休日によくドッジボールなどをして遊んでいたし、妹の習っているピアノを妹から習っていたりもした。ゲームも一緒にしたし、トランプもした。何をするにも一緒で、俺と有香は『二つで一つ』状態だった。
中でも特に思い入れがあるという思い出をチョイスするならば、やはり、『かくれんぼ』だろう。断言できる。
俺が小学四年生で、有香が三年生の春。じゃんけんをして、俺が鬼。有香は「六十秒だからね!」と言って楽しそうに駆けて行った。そこは草原で、広いし木もたくさんあったから、俺はじゃんけんに賭けていた。じゃんけんに負ければ負け同然、勝てば勝ち同然。だから多少落胆しつつも、とにかく六十秒を目を瞑りながら数えた。
数え終わると、俺はゆっくり辺りを見渡した。春が来た、という、生命の息吹が感じられた。緑が綺麗で、思わず当初の目的を忘れるところだった。心地の良い風を全身で浴びて、俺は有香を探した。
結果から言うと、有香はすぐに見つかった。たくさんの木々の中でも一際大きな木の下で、上半身を木に預けながら眠っていた。俺が揺すっても起きないので、俺は有香の隣に腰を下ろし、そのまま自分も寝てしまった。
次に俺が起きた時、まだ有香は寝ていたので、俺は先ほどより幾分か強く揺すった。そうしたら有香は、「んー?」と呑気な声を出し、それから俺の姿を認めると、寝ぼけ眼で「おはよう」と言って笑った。俺はついに耐え切れなくなって爆笑してしまった。そんな俺を傍らに見つめて、まだ何のことなのかわからない有香は、にこにこと相変わらず寝ぼけた様子で笑っていた。
そんな有香がある日、気管支喘息で倒れた。
「お兄ちゃんッ!」
俺が病室に入ると、有香は嬉しそうにそう言った。両手をいっぱいに広げてその嬉しさを表現している。……かと思えば、
「お兄ちゃーん、病院ひまひまだよー」
なんて愚痴をこぼしたりしている。
「病院ってそういうところだろ。どうせ今日明日で退院できんだから、我慢しろ」
「ぶー」
そう、こうしているともうずっと前から入院しているみたいだが、先述の通り、有香はおととい『気管支喘息』という持病が発症し、気絶寸前まで体力を消耗した後、部活からへとへとになって帰ってきた俺が見つけて、慌てて救急車を呼んだだけ、である。
「病院って、つまんないね。ガッコあるからお見舞いに来てくれる人もいないし、一人でずぅーっとベッドの上でお外見てるだけなんだよ」
「だから、俺がこうして来てやっただろ」
「でも帰っちゃうんでしょ?」
「…………」
ほうらね、と有香は悲しげに言う。俺は何も言えずにただ、「りんご。……持ってきてるぞ」話題を逸らすことしかできなかった。「好物だろ、お前」
有香はすぐに元気な顔に戻り、
「うん食べるー!」
と嬉しそうに両手を広げて足をばたつかせた。
「…………思ったより、元気そうだな」
りんごにむしゃむしゃとかぶりつく妹の姿を見て、微笑ましさ半分、あとは呆れ半分、といったところだ。
「そうだよ、有香は元気だよぉー」
今すぐにでも退院できるもん、と有香は口を尖らせる。俺は微笑とも苦笑ともつかぬ表情で有香を見つめていたが、ふと時計に目をやると、もうすぐ面会時間が終わることに気がついた。今は七時五十三分だ。
部活の後、全速力で自転車を飛ばしてきても風が強かった上、距離が案外遠くて、七時過ぎに部活は終わったのだが病院で、こうして有香の病室まで辿り着いたのは四十分すぎだった。
「悪い有香、もう面会時間終わりだ」
「えぇーッ、もっといてよう!」
有香が俺の腕を掴んで離すまいと掴んでいる手に力を込める。
「駄々をこねるな。病院に迷惑んなるだろうが。明日退院するんだろ、だったら今日は我慢だ」
「ぶぅー、ちぇっ」
ぐちぐち文句を言いながらも、有香は渋々俺の腕を放してくれた。
「じゃ、また明日な」
俺が言うと、有香はうんまた明日ねーと言いながら手を振ってくれた。俺も手を振り返すと有香がにこっと笑ってくれたので、俺もにこっと笑い返した。
ドアを閉めるその一瞬、僅かに有香が泣きそうな顔をしたのだが、俺は気づかない振りをして後ろ手にドアを閉めた。我ながら無情な奴だとは思うが、面会時間はルールだ。規則だ。守らなければいけないのだ。有香にはわからない(今からわかって欲しくもないが)、大人の社会というものがある。
……まあ、俺もまだまだ親の脛をかじっている子供だけれど。
その、次の日だった。
母親が青い顔で学校に来た。まだ午後の授業が始まったばかりだ。
その真っ青な表情を見る限り、朗報ではないことは明らかだった。俺はなんだか胸さわぎを覚えたが、とにかく平静を保って母親が話し出すのを待った。
「落ち着いて聞きなさい」
落ち着いてないのは俺じゃなくて、母さん。……そういいたかったが、俺は何も言わずに頷いた。
「有香が、有香が――」
途端に溢れ出した恐怖は、それは母さんも同じなのか、母さんは急に泣き出した。
「有香が……事故にッ……!!」
瞬間。
世界が――色をなくした。
「どう……いう……」
どういうことだよ! と、俺は力の限り叫んでやった。有香は今日退院で、退院を楽しみにしてて、俺が帰ったら家には有香がいるはずで……――
「有香が……有香が事故に、って、どういうことだよ! 説明してくれよ!」
母さんは泣きながら俺に説明した。
「病院出たあとね、私と二人で家に帰ったのよ。でもね、有香、たった数日間なのによほど外に出たかったらしくてね、病み上がりの体で、一人で、外に……!」
そこで運悪く車に衝突して、またあの消毒液くさい、有香の大嫌いな病院へ――何という皮肉だろう。やっと病院を出たばかりだというのに。またもう一度、病院とは。
まだ生きている、と聞いて俺は僅かだが気を取り直していた。少なくともまだ死んでいない。しかし、自体は一刻を争うという。
「何で……どうして母さん、いてやらなかったんだよ」
駄目だと思っても、叫んでいた。
「あんた、俺たちの『母親』なんだろッ!」
――瞬間、母さんが息を飲んだのがわかった。
それからぽつりと、独り言のように言った。
「……そうしたら、誰があなたを呼びに行くの……?」
「え?」
「あの子には私じゃなくて、あなたがいてやらなきゃ駄目なの! あなたじゃないと、有香は安心できないのよ!」
「母さ……――」
「母さんなんて呼ばないで!」
怯えたように耳を塞いで母さんはその場にうずくまった。そうして尚もヒステリックに叫ぶ。
「私は本当の母親じゃないもの! あなたたちの家族じゃ、ないもの! あなただってそう思っているんでしょう、母さんなんて呼び方は建前。本当は思っているんでしょう、なんで私が母親ぶって世話焼いてるのかって、思ってるんでしょう!?」
「…………」
母さんは二年前、うちにやってきた。
急だったものだから有香も俺も戸惑って、結構きつい態度を取ってしまっていたかも知れない。でも別に母さんが気に食わなかったからじゃない。
五年前に「本当の」母さんが離婚して、父子家庭になった。それから三年を経て、新しい母親を父さんは連れてきた。しかし早々にもう一度離婚して、今度は母さんに引き取られた。
完全に血のつながりは絶たれ、一年同じ屋根の下で暮らしてきたにも関わらずまるで二年前、初めて会った時のような態度で接してしまって、母さんを驚かせたかも知れない。それを母さんは俺たちの、母さんへの不満ととってしまったのだろう。
母さんは、悩んでいた。
なぜ気づいてやれなかったんだ。
…………本当は。
母さんと血が繋がっていればいいと思っていた。幾度も幾度も思った。
本物の母さんと父さんが愛しくなかったわけではない。それでも、現実はこうなっているわけだから受け止めようと最大限努力した。
だからせめて、母さんが俺か有香のどちらかでもいいから産み落としてくれていれば……と思わずにはいられなかったのだ。
俺と、有香と、母さん。
いつも笑って過ごす天真爛漫な母さんは、こんなに脆かった。
「……行こう」
「……」
「病院」
早くしないと……。その先は言いたくなかった。
俺が母さんに手を伸ばすと、母さんは少し迷ったようだが、しっかりと手をとってくれた。

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