病室の前で一瞬立ち止まり、軽く深呼吸してから、全然重くないはずなのにのにとっても重そうな表情でお母さんはゆっくりとドアを開きました。
 ガラガラ、という音がしてドアが開くと、そこにはお兄ちゃんが寝ていました。私はお母さんを押しのけててくてく歩いていくと、お兄ちゃんは苦しそうな顔をしていました。やっぱりお熱があるみたいです。
 苦しそうに、痛そうに、辛そうにしているのが可哀想で、私は思わず涙ぐんでしまいました。
「春奈」
 名前を呼ばれてお母さんに引き寄せられたので、私はお母さんの体に手を伸ばして抱きつきました。そうしながらお兄ちゃんを見ます。やっぱり苦しそうです。
「…………」
 お兄ちゃんは人の気配にようやく目を薄っすら開きました。少し赤く腫れています。
「…………?」
 お母さんはお兄ちゃんを黙って見下ろしています。お兄ちゃんはじっとお母さんを見つめています。そこに何かを探すように。そしてお兄ちゃんは、ふっと笑いました。
「元気、そう……だな」
 私は言葉の意味がわかりませんでした。それではまるでお兄ちゃんがお母さんを知っているみたいです。しかし、お母さんも知っているようで、苦笑いしながらお兄ちゃんに言いました。
「あなたもね」
「おいおい、ここ、どこだかわかってるか? 病院だぜ?」
「そういうところが変わってないのよ」
 二人は笑っていました。私も嬉しくなって笑います。
「ここらへんに住んでるとは知っていたけど……まさか、再会するなんて」
「何で戻って来たんだよ? 確か今は東京に住んでるはずだろ?」
「会うとは思ってなくて、ついつい実家に帰ってきちゃったのよ」
「へえ」
 お兄ちゃんはしばらくお母さんを見つめてお話をしたり、笑いあっていましたが、ふいに私に目をやりました。
「その子、あんたの?」
「そう、私の……よ。お父さんは違うけど、あなたの妹になるわね」
 私はびっくりしました。お父さんが違うとかそういうのはよくわからないけど、どうやらお兄ちゃんは、本当に私の『お兄ちゃん』だったようです。
 さっきあったばっかりの人がお兄ちゃんだったなんて、と私はお兄ちゃんをじっと見つめました。お兄ちゃんは笑いかけてくれましたが、すぐに顔をお母さんに戻しました。
 もう、笑っていませんでした。
「母さん」
 お母さんはびっくりしたようですが、黙って聞いていました。
「母さん、有香が……」
 お母さんの顔色が変わりました。

「――――死んだよ」

 お母さんは黙っていて、それから涙ぐんで、ついには泣き出してしまいました。静かに泣いていました。私もなんだか悲しくなって、大きな声で泣き出してしまいました。
 お兄ちゃんは泣きませんでした、じっと、どこかを見つめていました。

「春奈」
 しばらくすると、まだ涙声でお母さんが私に言いました。
「帰りましょう」
 私もお母さんを真似て言いました。
「帰りましょ」
 お兄ちゃんは「じゃーな」と言って手を振りました。お母さんは「元気で」と手を振りました。私は「またね」と言って手を振りました。二人とも私を見て悲しそうな顔をしました。どうしてでしょう?
 病室を出る直前、お母さんが足を止めました。不思議に思って私がお母さんを見上げると、お母さんはお兄ちゃんに背中を向けたまま、下を見つめたまま言いました。
「……苦しいのは、あなただけじゃないのよ」
 お兄ちゃんは表情を変えずに聞いていました。
「どれだけ有香を好きだったとしても、可愛がっていたとしても、その大切な有香が死んでしまっても、次の日っていうのは絶対くるんですもの。有香が消えても、なくならないものは世界に腐るほどあるわ。有香一人いなくなっても、困る世界じゃないのよ」
 お母さんはそこで一旦言葉を切りました。お兄ちゃんは少したって「何が言いたいんだよ」と、怒ったような口調で言いました。
「…………朝陽は、昇るってことよ」
「……」
 しん、と、病室全体が静かになりました。
「もうじき雨も止むし、明日になれば雲も晴れる。明日の天気は晴れよ。どんなにあなたが絶望しても、とても綺麗な朝陽が昇るでしょうね」
 お母さんはそう言うと、ドアをガラガラ、と閉めました。
 お兄ちゃんは……
 お兄ちゃんの顔は、見えませんでした。
「……」
 お母さんはドアを閉めたきり、その場を動きません、私が手を引っ張っても、動きません。
「お母さん?」
 呼んでみても、お母さんは顔をあげませんでした。
「ごめん、ね……」
 何が? と聞こうとしましたが、
「ごめんね、有香、ごめんねっ……!」
 どうやらお母さんは私ではなく、お兄ちゃんもさっき言っていたお姉ちゃんに謝ってるみたいです。有香お姉ちゃんとは、誰なのでしょう。大切な人なのでしょうか。大切な人が死ねば、私だって悲しいに違いありません。
 お母さんは「春奈、車の鍵を開けてきて」と、私に鍵を持たせました。鍵を開けるのは得意技です。私は嬉しくなって駆け出しました。下に下りていけばいいだけよ、とお母さんがいったので、迷う心配もありませんでした。
 遠くから、静かな廊下から声が聞こえてきました。お母さんだと思います。
「有香、ゴメンね、駄目なお母さんで、ゴメンね……ッ! 最後まで、嫌なお母さんで……」
 ゴメンね、と。お母さんはしきりに謝っていました。私は「お母さんは駄目なお母さんじゃないよ!」と叫びたかったのですが、後ろを振り向いていると危うく転びそうになり、そっちに気を取られてしまいました。
 次のお母さんの言葉を最後に、声は完全に聞こえなくなりました。
「ゴメンね、旭、ゴメンね……!」



「おはよう、旭君」
 看護士が微笑みながら起きたばかりの俺に微笑みかける。
 母さんが言ったとおり、翌日は太陽が眩しいくらいに病室を照らした。
 そして俺は今日、病院を出た。退院したのだ。
 家までの道のりを車の窓からじっと見つめていた。俺は一生、この道を忘れないだろう。きっと何年経っても、何年病院にお世話になることがなくったって、覚えてる。
 有香のことだって覚えている。地球は、有香という一人の少女の死を無視して、回る。世界が覚えてなくったっていい。俺と、母さんだけが覚えていれば、それでいいと思えた。
「母さん」
「なあに?」
「メシ、ラーメン食いてえ」
「そんな暇ないわよ」
 そうだった。
 有香も病院を出たので、今母さんは忙しいのだ。いろんな人……親戚やら、いとこやらに、はがきを書かなければいけない。火葬とか葬式とかの準備もしなければいけない。あまり考えたくはないが、お金のことも考え、計算しなければいけない。
「でも……そうねえ」
 母さんは笑いながら言った。
「寄り道して、どこかに食べに行きましょうか。私も食べたいし」
 母さんがふふふと笑ったので、俺も笑った。
「今日は、本当にいい天気ねえ」
「いい……天気だな」

 その日感じた太陽の温かさも。
 ――俺は一生、忘れはしないだろう。