「ちっ……く、しょ……っ……」
 雨で衣服がべっとりと張り付く。気持ち悪い。寒い。凍え死にそうだ。
「なんで、こんなっ……!」
 雨は容赦なく俺の全身をずぶ濡れにしていく。
 その中に一筋だけ、温かい「雨」が頬を伝ったことに、俺は気づかない振りをした。



 雨はいつになっても降り止みませんでした。
 雨は私をばしばしと叩きつけました。
 雨はどんどん勢いを増していきました。
 雨の中を、私は傘も持たずにカッパだけを着て街を放浪します。
「ぴっちぴっち」
 ちゃっぷちゃっぷ。
「らんらんらんー」
 頭を左右に揺らしながら歩きます。なんだか胸がわくわくします。いいことがありそうな予感がします。
 車はほとんど通っていません。日曜日じゃないからでしょうか。それともお昼だからでしょうか。
 そういえばおなかがすいてきました。どこかで休憩しましょう。
 私はピンク色の看板の、いつもお菓子を買いに行くお店が見えてくるまで歩きます。しかし、その途中の公園の青いベンチで、何だかぐったりしている人を見つけました。
 寝ているのかな? と私は思って、ちょっと遠目にその人を観察してみました。やはり、どこからどう見ても「寝ている」というよりは「死んでいる」です。
 私はちょっぴり怖くなって、辺りを見回してみましたが、誰もいません。歌うのをやめて、近づいてみましたが、その人はちっとも動きません。
「お兄ちゃん」
 そう、近くから見たらその人は「お兄ちゃん」でした。赤いネクタイをしていて、薄い茶色のズボンをはいていました。白いYシャツを着ていて、肌色が透けて見えていました。すごく寒そうで、私はなんだか泣きそうになりました。
 ネクタイをつけているお父さんを思わず思い出し、でもお兄ちゃんはお父さんみたいに大きくないし、めがねもかけていないし、若くて、やっぱり「お兄ちゃん」でした。
「お兄ちゃん」
 もう一度呼びかけると、お兄ちゃんはびくっとして目を開きました。でもなんだか私を見ていないみたいです。雨がざあざあ降っているのに、お空を見ているみたいです。
 お兄ちゃんはゆっくり私を見ました。でも、目が合いません。やっぱり私を見てくれていないみたいです。
「お兄ちゃん、お風邪引いちゃいますよ?」
 私がそう言うと、お兄ちゃんは私を見ないまま私に手を伸ばしてきました。
「…………か……」
「え?」
 私が聞き返すと、お兄ちゃんは諦めたような、苦しそうな顔をしました。伸ばした手を引っ込めないので、私は手を伸ばしてお兄ちゃんの手を握ると、お兄ちゃんは手を思いっきり引いて私を抱きしめました。
 強くて。
 強くて、
 ――痛いほどでした。
「ゆ……か……」
 お兄ちゃんの腕は震えていました。寒いの? と聞くと、お兄ちゃんは何も答えずに、同じ言葉ばかりを口にしています。
「有……香……有香、有香、有香……ッ!」
 だあれ? と聞こうとして、失敗しました。
 お兄ちゃん、泣いてるの?
 なんで?
「有香……!」
 雨かと思ったけれど、やっぱりそれは涙でした。
 なんだか、あったかそうだったから。

 ――幻聴が聞こえたかと思った。
 とうとう俺もイカレちまったか、なんて変な感傷に浸っていた。
 しかしもう一度聞こえた言葉に耳を疑いながらも目を開いた。そして少しホッとする。なんだ、俺、生きてる。まだ、生きてる。
「…………?」
 おかしい。変だ。焦点が定まらない。虚ろに空を見つめるが、その白も灰色も霞む。ただ、少女の声だけが頭の中に響く。
「お兄ちゃん、風邪引いちゃうよ?」
 びびびっと、静電気が体中を駆け巡ったような痛みが走って。
 俺は虚ろなまま、少女に手を伸ばした。その温もりを確かめたい。
 有香、と呟いて手を伸ばす。え? と少女が聞き返す。
 ああ……やっぱり違うのか。
 それでもいい。俺はとにかく、今だけは夢を見ていたかった。寒い。寒いから、人の温もりを求めるんだ。理由はそれだけでいい。
 有香がどうとか、有香が希望だったとか、有香が一縷の望みだったのにとか。
 有香が――死んでしまったとか。
 そんな事情を抜きにしたって俺は誰かを今抱きしめたかった。温かいものに触れたかった。少女は案の定、あたたかかった。雨に濡れたカッパを纏っているのに、温かかった。
「有香……!」
 涙が流れ落ちる。今日二度目の涙だ。
 うわ言のように何度も、何度も、何度も、何度も……愛しい彼女の名前を呼び。
 たった一人の、妹の名前を呼び。
 俺は本気で後悔した。俺は本気で激怒した。有香を救ってやれなかったこと、世界は有香も俺も見捨ててしまったこと。
 当てつけみたいに、こんな純粋無垢な少女と出会わせたこと。
「…………ッ」
 やりきれない思いが胸を焦がす。
 有香を失ったばかりの俺にとって、少女の体温は優しすぎた。