何となく予想はしていたが、翌日の朝は体がだるかった。
そのだるさは疲れとかそういうものじゃなくて、精神的なものだとわかっているから更にだるさ倍増。今日は何もしたくないと思いすらする。
ヤバイ兆しかな。……なんて、のんびり解析してる暇もなさそうだ。
「今日はちゃんと、やってきたかなー」
歌いながら来たのは昨日も歌いながらやってきたあの子。
「……はい」
昨日は遅くまで起きて六人分プラス自分の分で七人分――同じ学年で同じクラスなので、もちろん同じプリントだが多いだけに答えを書き写すのも大変だった――を、でかした。
「間違ってたら、地獄行きよー」
いつものように、歌うような口調で。しかし、いつもならすぐに私の席から離れていくのだが、今日はなかなか離れていかない。私が訝しげにその子を見ると、目が合った。
その子は、ゾクッとするほど冷たい笑みを私に向けていた。
そして、ゾクッとするほど冷たい声で、言うのだ。
「あなたは、いつ死ぬの?」
歌うような口調は消えうせていた。この子は今、真剣に私に答えを求めているんだ。例えそれが、馬鹿げた質問であっても。
「ねぇ、いつ……死ぬの?」
もちろん、私に自分の寿命がわかるはずもない。即ちこの子は、私に。
――いつ自殺するのか、と聞いているんだ。
「こんな居心地悪いガッコに、いつまで居続けるのかな? どうして出て行かないの? お母さんはあの通りだから、学校をサボるなんて、わけないでしょ?」
何を言っているのだろう。この子は何を知っている?
「いつまでもつまらない学校に執着しているのは何故? あんな母を持ちながら、嫌にならないのは何故?」
私は何も言い返せず。その子は容赦なく、続ける。
「死んじゃっても、いいんだよ? 誰も止めない、止めてくれる人はいないよ」
「やめてよっ……」
「ねぇ、どうして? どうしてあなたは、生きてるの? 私みたいな人に復讐したいから?」
「違うっ!」
「じゃあ、どうして?」
僅かに苦しそうな顔をしながら、思わず目を逸らしてしまいそうなほど真っ直ぐに、私の瞳を捕らえてくる。質問されているのはこっちだから、どうしてそんなに私のことを知っているの、何て聞くのは野暮な気がした。
「……私、は……」
――死んじゃっても、いいんだよ?
私は静かに、目を閉じた。
「逃げるの、嫌だから」
脳裏に思い浮かんでくるものはない。ただ、自分の心が剥き出しになっている感覚がリアルに感じ取れる。
「あなたたちにこうやって、パシリみたいにされるのも、確かに嫌だよ。母さんがあんな風になっちゃうのも、新しい父さんが来るのも、すっごくすっごく嫌だよ。でも……目、背けたくないの。逃げたく、ないの」
私は相手の反応が怖くて、目を開けられずにいた。目を開けたら、いなくなっていればいいのに。
でも、もしまだ目の前にあの子がいるのなら……伝えたいことは、ちゃんと目で訴えかけなきゃ。
……ゆっくり目を開く。案の定、まだその子は目の前にいた。
「私、今がどんなに嫌でも、逃げるのはもっと嫌だから。でも、ずっとずっと、このまま永遠にこんな日常を過ごすのは、もっともっと嫌だから……力が欲しいの」
――何度も願った。
何度も祈った。
それでも願いが、叶うことはなくて。
……何度も、泣きたくなった。
「…………ふーん。あなたが死ぬのはきっと、まだまだ先だね」
その子は唇の端を吊り上げて、にやっと笑った……気がした。
「私さ、思うんだけどね」
その笑みを私に向けたまま、その子は言った。
「何事も、他力本願はイケナイと思うよ」
家に帰ってからも私は、ずっとその言葉の意味について考えていた。
「他力本願、ねぇ……」
ベッドに仰向けになって寝転びながら、私は自分の手の平を見つめる。
その手を、握ったり、開いたりする。
「力が欲しい……」
それを願うのは、『他力本願』?
だとしたら、私はどうしたらいい?
私は、どうやって自分の道を開けばいいの?
『力が欲しいなんて、星に願うようなことじゃないよ』
それってつまり、他力本願だって言いたいの?
ねえわかんない、わかんないよ。
そんなことを考えていた刹那。短く大きく、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「姫里ーっ!」
母さん?
私はすぐ階段を駆け下り、玄関まで息を切らすほどの勢いで走った。母は靴を脱ぎながら、晴れ晴れとした、でも少し不安そうな……そんな表情で私に笑いかけた。
「母さん、何だか今日は早い、ね……」
それも、昨日より、だ。
更に、今日は私が大嫌い――だけど、慣れてしまった――な酒の匂いがしない。
「…………昨日は、ゴメンね」
母さんは唐突に謝ってきた。私はどうしたらいいかわからず、少し首を傾げた。
「私ずっと、姫里は私が嫌いなんだと……思ってたの。パパが欲しいんだって。私みたいな飲んでばかりの親じゃなく……ちゃんとした親が、欲しいんだって」
「嫌いな相手に介抱なんかしないよ」
「それは、私が哀願したからでしょ」
母さんは苦笑しながら言った。どうやら、薄っすらだがその時の記憶は覚えているらしい。
「でもね、昨日姫里が本当のこと、喋ってくれたから……私もう一度、頑張ってみようかなって、思って」
それってつまり……? 私は胸の鼓動が速まるのを感じた。
「仕事、しようと思うの」
「……本、当……に?」
「……姫里は、もう遅いとか、今更何言ってるんだって思うかもだけど、でも、やってみたいの」
チャンスを、くれる? ――母は私に目で問うてきた。
答えは、ずっと前から準備されていたように、すんなりと出てきた。
「いいよ」
否、準備されていたのかも知れない。ずっと言いたかったのかも知れない、この言葉を。
「私もバイト増やすし、その…………二人で、頑張ろうっ!」
二人で。生きていくんだ、これから。
「ひめ、り…………ありがとう。ありが……とうっ」
母さんは泣いていた。
私も泣いた。
何だかなぁ。止まらなかったんだ。やめろ、出てくるなーって、いくら涙を押し返しても。どんどん溢れてくるんだから仕方がない。
「私も……逃げないから」
小さく呟いたその決意は、母のもとへは届かなかったようである。
「絶対、変えて見せるから」
二人は、そこが玄関であることも忘れて、声が、涙が枯れるまで、嗚咽を漏らしながら泣きあった。
ようやく涙も収まり、気持ちの整理もついたその日の夜、みんなの分の宿題をやろうとした時。
プリントが一人分足りないことに気がついた。
「あの子の分だ……」
今日、私に「他力本願はイケナイ」と教えてくれた、あの子の分がない。いつもなら帰りまでには机の中に入っているはずなのに。
あの子は、何がしたかったんだろう。
何が、言いたかったんだろう。
「……ま、明日聞いてみればいっか」
物事はあくまでポジティブに。
同じ所で立ち止まったら、いつまでたっても前に進めないから。
「他力本願はイケナイ……自分の夢は、自分で叶えろって?」
私はようやく理解できたその言葉の意味を暫し頭の中で反芻し、唇だけで笑った。
「姫里ぃ、宿題っ!」
「……はい」
私が、やや緊張した面持ちと震える手でプリントを渡すと、いつものように引っ手繰るように受け取った五人組が、プリントを見て顔を顰めた。そして次の瞬間、ヒステリックに顔を引きつらせながら叫んだ。
「ちょっと姫里、何よこれ! 一問も解いてないじゃないっ!」
「……」
ここで黙ったら、負けだ。
頑張れよ、姫里。
ちゃんと言うんだ。しっかり言うんだ。目を見て、言うんだ。じゃなきゃ伝わらないぞ、姫里。
「私……もうこんなの、嫌だから」
目を逸らさないように、相手を睨みつける。一人一人、じっくりと。
「な……何よ、今更! あんたは私たちの奴隷みたいなもんなんだから、言うこと聞きなさいよ!」
「私、あんたたちの奴隷じゃないもん!」
――暫しの沈黙。
沈黙を破ったのは、私。
一旦息を吸って、また吐く。何を言ったらいいのか、頭の中をいろんな言葉が飛び交う。
結局私は、持論ぶってあの子を真似てみた。
「たっ……他力本願は、イケナイと思うよっ」
そしてまた、沈黙。しかし、相手は明らかに驚愕し、怒りに震えている。
「何よ、あんた……今まで散々、扱き使われてたくせにっ!」
リーダーのような人がみんなに「行こう」と声をかけた。すると、四人とも各々に踵を返し、文句を言いながらも自分達の席へ戻って行く。
「……あんたたちが無理矢理扱き使ってたんでしょうが」
私は小さく呟いた。何だかとても気持ちいい。
「これであなたは、自由の身ー」
歌いながらやってきたのは、お馴染みの子。
「勇気を振り絞った姫里は晴れて、成長しましたー……勇気は力って、言わないのかなー?」
にこにこと、笑いながら。いつものように私に向かって『歌う』。
「勇気は、力……?」
「勇気を出して何かをすることもー、立派な力なりー」
その子は私の手を握った。
「ゴメンネ。私のお母さんもあなたと同じ飲んだくれでね。よく二人で飲んでたみたい。私はあなたを知ってたけどあなたは私を知らなかったのね。あ、お母さん、今はちゃんと仕事してるよ。……あなたはそれに加えあの人たち――そう、あの五人組――にパシリにされてたのに、挫けなかった。私より強いってことを認めたくなくて、あの五人に私も便乗しちゃった」
へへ、とその子は苦く笑った。その言葉にメロディはついていなかった。
でも、とその子は言う。
「でも、それでも挫けないから、きっとこの子は私よりも強いんだなって……思って」
その子は、にこっと笑い、よかったねーと歌いながら、私の席を離れていこうとした。
「ちょ、ちょっと待ってっ! ……あの、名前、教えてくれる?」
その子はくるっと振り返ると、「勇気の子供」と言った。
「へ?」
「私は勇気の子。勇子なの」
「勇、子……?」
私は小さく何度も呟いた。勇気の子。勇子。
「最初は勇ましい子、みたいで嫌いだったんだけど、『勇気』って考えるようになってから、こんな名前でもありかな……なんて思ってね」
ふふふと笑いながら勇子は、自分の席へ戻っていった。
「……勇気、かぁ……」
きっと、私の中でその力は。
勉学の力より。スポーツの力より。記憶力より、体力より、実行力より。
――ずっと大切で大きな『力』になるだろう。

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