――知らぬうちに、寝入ってしまったようだ。
辺りは一面真っ暗で……ここは、夢の中か? 夢の中だからこんなに、暗闇を怖いと思うのか?
わからない。手足と心が鈍痛を訴える。俺はそれを無視して少し歩いてみた。歩いてみたけど、何もない。見渡す限りの黒、黒、闇。
……俺は夜が、好きだった。
暗いというイメージが、俺は好きだったのだ。何と言うか、自分にあっていた気がする。夜にはどこまでも興奮――ワクワク、とかドキドキ、とかそういった類のもの――を追求することができた。夜ならどんなことでも、どんな無謀なことでもできそうな気がしていたし、実際に何度か、自室の窓から屋根を伝い、汗で滑る手でなんとか壁にある数々の出っ張りを掴み、地上へ降りて、真夜中の街を探検したことがあった。
田舎だからなのかはわからないが――それは暗闇の街だった。
都会へ行けばきっと、繁華街やら歓楽街やらのネオンがぴかぴか光っているところだろうが、俺の見た「夜の世界」は、どこまでも静かだった。そしてどこまでも暗かった。否応なく興奮させられる、好奇心をこれでもかというほどに煽られる……――それが俺の見た「夜の世界」だ。
俺はその日はずっと駆け回ってた。汗でびっちょりになっても、まだまだ走り回った。自由を得た気がしたんだ。空が薄っすらと明るくなってきた頃、ようやく我に返って、慌てて家に戻ったわけだけど。玄関はもちろん鍵は開いていないし、二階へ戻るにはかなりの体力と集中力と技術がいるので、結局たまたま空いていた座敷の窓から侵入した。
夜の大冒険だった。
ただ、困ったのはびちょびちょの衣服と、どうしようもない眠気だった。後先考えずに突っ走ってしまうきらいがある俺は、次の日が学校だと言うことも忘れ、衝動に駆られるままに家を飛び出してしまった。母親にはびちょ濡れな理由をさっき朝風呂したんだと苦しい理由で誤魔化したが――多分母は嘘だと気づいている――いつものフレーズ、「仕事に遅れる」と言い、早々に家を飛び出してしまった。これは息子に無頓着な訳ではなく、あまり干渉しないようにしているだけなのだ。
つまり、母の精一杯の気遣い。それがわかっているだけに、無駄な苦労を背負わせているようでまことに心苦しいのだが、直せないから致し方ない。
とにかく。俺は夜が大好きだった。暗闇が、大好物だった。
なのに今は、恐ろしいとか考えている。
なぜだろう? やっぱり夢だからか?
「……けて……」
――まただ。
もう何度目になるかわからない。
「助けて……」
俺を助けてくれよ。もう無理だ。悪かったよ。もう逃げない。どんなに辛い罰でも受けるよ。
だから、もう俺に助けを求めるな。
頼むから――
その時、声がした。
「裏切り者」
ってさ。
俺、飛び起きちまったよ。
「ん…………?」
俺は上半身を起こしたまま、やっぱりさっきのは夢だったのか、なんて思い返す。それにしても、さっきはなんって言われたんだっけ? なんか、とってもヤなこと、言われた気が、する……。
言われたのは夢の中か? それとも……
俺はまだぼんやりした思考とぼんやりした瞳で視線を上げた。誰かがいた。たぶん勝手に上がりこんだんだと思う。靴下で俺の布団の傍に屈み込んで俺を覗き込んでた。
そして、一言。
「おーい、裏切り者。生きてるか?」
普段通りの、のんびりした口調と、感情の見えない声。
でも俺はその一言だけでも、完全に打ちのめされてしまっていた。
「あ、ゆ、づき……?」
何でここに、退院今日だろ、本当に、ごめん。
いろんなことを言いたい。言いたいけど、言葉にできない。
「今日、退院、じゃ……」
「はあ? 昨日退院してたよ。誰だよ嘘ついたの。今日から学校……だけど、サボっちゃった」
なんで?
――聞けなかった。
だって、わかりきってるだろ。裏切り者のところに、縁を切りに来たんだ。縁を切るとまではいかなくても、俺を蔑みにきたんだ。
どうしよう。
「お、お前、不法侵入じゃ……」
馬鹿か俺。
「いーじゃんいーじゃん。三百円の借り分」
「あ……そ……」
そうか、じゃねえ俺。納得するな。
「で、気分はどう?」
「は? 気分、って……」
最悪だけど? ……なんて、言えるか。
「は、って、お前熱出してんじゃん。だから今日休んだんじゃねえの?」
「熱? いや、別に出してねえ、けど?」
でもそういや、さっきから苦しい。一言しゃべるごとにのど痛いし。眠っちゃう前も咳が止まんなかったような気も……。
「……でも熱なのは確かだよ。それともお前平熱三十八度か?」
「…………そんなに、あんのか……?」
「そんなにあんだよ。さっきもうなされてたみたいだったぜ?」
うなされてたんだ。俺。
「……話くらい、できんだろ?」
ああ、やっぱりきた。
「できない、ことも……ない」
どっちだよ、と言って笑ういつもの夕月はそこにはいなかった。ただ頷いて、じっと俺の目を見つめただけだった。まるで、「もう言いたいことはわかってんだろ?」みたいな、目で。
真っ暗闇に、一人だけ、
『助けてくれ』
友達を、親友を裏切って。
一人だけ助かって、挙句に顔をあわせたくないから学校まで休んで。
最低だな。最低だ。最低すぎる。
「……ご、め……」
ごめん、と言おうとして失敗した。涙が邪魔した。
熱のせいで情緒不安定になってんだか知らねえが、なぜか涙がどばどば溢れてきて。止まらなくて、止められそうになくて。すっげえ恥ずかしい醜態を夕月に晒すことになってしまった。
「俺、俺俺、怖くて……ッ」
今更『怖かった』なんて、言い訳にしかならないのに。
なんで考えなかったのかな。夕月を裏切るという事実が一番怖いってこと。
顔を上げると、無表情な夕月が俺をじっと睨んでいた。その顔にはまだ青黒いい痣が残っている。ひ、と悲鳴をあげそうになったが、すんでのところで我慢した。
「ごめん、ごめんッ……」
ごめんしか言えない。謝ることしかできない。俺はいつだって、道を誤ることしかできない。
俺は一通り謝ってしまうと、相手の反応を待った。何ていわれるんだろう。なんにせよ、許してもらえるはずがない。
夕月は、たっぷり数十秒間間を置いた後、ゆっくり、というより、淡々と言った。
「そうだね。まさか俺も、あそこで裏切られるとは思わなかった。それも親友に」
ズキ、って、俺のどっかでそんな音がした。んで、俺はまたしても、
「……ごめん」
たったそれだけ。そしたら夕月が溜め息ついてた。目あげたら苦笑してた。
「さっきからそればっかだね。もしかして単細胞?」
「たっ……単細胞で悪かったな!」
………………。
……………………あ。
お、お、俺ってマジで単細胞の馬鹿野郎ーッ!
「それ、もしかして開き直り?」
くすくすと夕月が笑う。
「開き直りじゃなくて、その、今のは、えっと、口が滑って」
「それってフォローになってないから」
「ぐっ……う、うぅぅぅー」
俺はぐでぇーっと前方に倒れる。布団の中で、足を伸ばしたままだから、今は長座体前屈やってるみたいな感じだ。でも痛くない。割と身体は柔らかいからだ。
「……その様子じゃわかってないみたいだけど」
「は? ……何が?」
「俺がちょーっとばかり怒っている本当の理由」
俺はゆっくり上半身を起こした。夕月は相変わらずのポーカーフェイスで、感情を相手に読ませない(俺はどっちかって言うとポーカーフェイスってゆーよりはベビーフェイスだ。悪かったな、これでも喧嘩は強いんだよ)。
そうか、こいつ、ちょーっと怒ってたのか……
「な、何?」
「俺だけ逃げれなかったことだよ」
…………。
「…………は?」
「だって、力は大体同じくらいだと思ってた親友が逃げおおせて、何で俺が逃げられないわけ? 挙句の果てに怪我までしちゃうし。親には説教喰らうわ、学校の勉強についていけないわで最悪だし。それはちょっとずるい。俺の方が絶対頭いいはずなのに。要領いいはずなのに」
な……。
「なんじゃそりゃ?」
俺は目を丸にして言った。
「そーゆー裏切り者クンは今までの分の全教科のノートを俺に貸す義務があります」
「な、なんじゃそりゃッ!?」
もしかしてこいつ、そのためにわざわざ俺の家まで来たのか? ……なーんてことは、怖くて聞けなかった。嘘だろおい……
「まず国語……現代、古文、漢文・英語・数学T・現社・OC1・家庭基礎・保健・体育・情報C・理科総合……は、違うコースだっけ?」
鬼だろ。
なんだ夕月は、今日のために十教科以上教科の名前を暗記してたのか!? どうしてこんなにつっかえずすらすら言葉が出て来るんだよ!
「待て待てッ、テストあんのはこのうちの数教科だけだろーがッ! っつか、ノートすら使わないようなやつまであんのは何でだよ!? それに、家庭基礎はつまんねーだなんだっつってお前いっつも寝てるじゃん!」
「ああ、気づいてたんだ」
「さらっと言うな!」
段々と俺のツッコミが勘を取り戻してくる。なんだかいつもと……あの事件から、全然変わってないような錯覚がする。
「夕月」
「ん?」
「ごめ……あ、いや……ありがと」
俺がしどろもどろになりながら何とか(慣れない)謝罪の言葉を口にすると、夕月は笑った。
「地獄を見せてる奴にありがとなんて、変だね」
自覚あるんだ……じゃなくて。
俺は苦く笑った。だって、地獄を見たのは俺じゃなくて、夕月だろ。地獄を見せたのは夕月じゃなくて……俺だろ。
なんで笑えるんだよ、お前。どうして罵らないんだよ、お前。
「じゃ、とりあえずテスト近いので六教科のノートからってことで」
ああ……そうだ。
夕月は、知ってるんだ。
言葉で蔑まれるよりも、もっと辛い方法を。
こうやって何もなかったかのように笑われるのが一番堪えるってことを。
「…………」
「ほら、早く。それとも俺のノートは汚すぎて読めませんーって、言うつもり?」
「やっぱ…………」
俺はがばっと立ち上がった。
「やっぱむかつくーッ!!」
「は?」
だってそうだろ。喧嘩じゃ弱点狙われんの一番嫌でヤバイことだろ。そもそも、弱点なんかを敵に知られること自体がまずいんだ。どうして夕月は俺のウィークポイントを簡単に見抜けるんだ畜生。
「うぉッ!」
あまりに握りこぶしに力を入れていると、熱を出しているのを忘れていたもんだから、ふらついてベッドに伸びてしまった。
そしたら、夕月が笑った。思いっきり爆笑してた。あ、やべえ。むかつくのになんだか涙が出てくる。安堵? 何で?
「くっそー、覚えてろよ……」
負け惜しみだと言われながら俺は涙を必死に堪えていた。うる目だったから余計負け犬の遠吠えっぽく見えただろう。くそう、失態、醜態、末代までの恥だ。
それでも、今だけは。
……今だけは、この涙は情緒不安定だからってことに、しとこうか。

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