夢を見ていた。
遠くて、遠くて、遠い……そんな夢だった。
だれかが夢の中で叫ぶ。
『助けてくれ』
やっぱり、その声も遠かった。だから俺は無視したんだ。その声は俺に向けられたものだって、わかっていたから、そしてその声の主も。だから尚余計に救いの手を差し伸べなかった。
だって、もうわかりきってるだろ。過ぎた時間はもう元には戻せない。
現実を再確認して幻滅するよか、マシだろ?
「最悪だな、お前」
知ってる。
「最低だよ」
それも知ってる。
「人間として間違ってる」
俺もそう思う。
「何でこんなこと……!」
…………。
それが、わかんねえんだ。
「何とか言えよッ!」
目の前に立っている男が苛立ちながら床を蹴る。そして拳で思い切り壁を叩き、その音は放課後で閑散としている教室に思い切り響いた。
敵は複数いる。教室の中に残っていた生徒たちは居心地悪そうに、もうとっくにどこかへ姿を消してしまっている。
「何で……! 何で、お前が……お前がこんなこと、するんだよ! 馬鹿じゃねえのか!?」
「さっきからそればっかだな、この単細胞」
瞬間、相手の顔から血の気が引いた。しまった、いつもの調子で言い返しちまったが……地雷踏んだか。
「ンだと、この……」
くるか? きちゃうか? ……相手が握った拳をやや緊張した面持ちで見つめるが、その拳が自分に向かって振りかざされることはなかった。相手もよーっくわかっているからだろう。俺と喧嘩して、勝ち目はないって。
「……クソッ」
そいつはそう吐き捨てると、踵を返し、それから顔だけをこっちに向けてじろりと俺を睨んだ。
威厳はあるが、正直怖くはない。
「俺は絶対、許さねえからな」
「絶対復讐してやるんだからな」
「覚えてろよ」
どれもこれも捨て台詞……言ってしまえば負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。しかし、ボスらしき奴が、
「腐れ阿呆が」
その一言、それだけが俺の胸に鈍痛となって響いた。
――もう心は腐ってます。阿呆だよ、俺は。認める。
じゃなけりゃ、親友を一人取り残して逃げたりなんか、しないもんな。
そこは、若者達の溜まり場だった。
俺も彼も、若者だった。
「なー奢ってくれよー」
俺は彼――夕月に、手で顔を仰いで「熱いアピール」をしながらねだった。暦上では今は夏だが、財布はいつも季節に伴っていない。いや、唯一冬の時だけはしっかりと財布の中身も木々は枯れている。高価な葉っぱなど一枚もない。
「貸しにしとく」
と嫌なセリフを言って夕月は三百円をぽーんと投げて俺によこした。何しろ高価な百円が三枚も投げられたので、二枚まではキャッチできたが一枚落としてしまって、慌てて俺はもう一枚を拾おうとかがんだ。夕月の冷笑が目に浮かぶ。悔しい。
――と、思っていた矢先。
拾おうとした百円を、誰かに踏まれた。
夕月は隣にいる。ということは俺と夕月以外の誰かだ。靴を見て咄嗟に、でかいと思った。それと同時に、これはヤバイとも思った。
「よお兄チャンたち。ちょーっと俺たちに金、貸してくんない?」
ここは、若者の集う場所――なのだが。
今時何十年前のチンピラだよ……と、思ったのはそんなことだった。
恰好は今風だが、ピンクのどでかいハイビスカスのプリントされたアロハシャツを着ていても全く違和感のなさそうな風貌の男たちがぞろぞろと現れる。
顔に傷をつけているやつもいるし、腕に刺青をいれているやつもいる。
……だから、一昔前のチンピラかっての。
なんだか「不良」より「チンピラ」がしっくりくるのはなぜだろうか。
「……悪いけど、俺、金持ってねえんだ」
俺が静かに喋る。夕月は隣で沈黙を守っていた。しかし雰囲気で、身構えているな、とわかった。
「金、あるよなあ?」
にやにやとこちらに近付いてくる。タバコ――これはメンソールだろう――の匂いと、酒臭い――酷く酩酊しているように思える――匂いが一度に押しよせてきて、思わず顔を顰めた。
「だからぁ、てめえらみてーなのにやる金はねえっての! おとといきやがれこんにゃろーッ!」
思い切り、叫んでしまった。
今思えば、俺は自惚れていたんだ。
自分は強い、と。誰も敵う奴はいない、と。自惚れていた。自分の才能に、溺れていた。
――俺は、ちっちゃかった。
怖かったんだ。
俺が初めて本気で殴り合って敵わない奴と遭遇して。俺が勝てないんだから、夕月も当然勝てる訳なくて。殴られる俺と夕月。情けない、恥ずかしい、ただそれだけで。
親友を労わる気持ちなど、これっぽちもなかった。
大切だったはずなのに。
すぐほいほいと女をとっかえひっかえしているやつと俺は違う。ずっと隣には夕月だけを置いてきた。
――なのに?
なのに、おれは見捨てて、走り出した。
走って、走って、走って、走って。
助けてくれよ、って弱弱しい声が聞こえたのに。聞こえたのに。聞こえたのに。
無視した。
俺は親友を、裏切った。
俺の見ていた夢――空想は、最悪な形で終わった。
「夕月君、明日退院するんだってね」
なーんて噂を聞いたらもう明日は学校へ行けない。
と思っていたら、本当にそうだった。おかげで今日は布団を恋人にしてベッドにへばりついている。親は怒ってはいたが理由は聞かずに「仕事に遅れる」などと慌てながらさっき出勤した。相変わらず大変だなあなどと他人事のように呟きながら窓の外に目をやる。
「晴れてんなあ……」
そりゃそうだ。まだ梅雨には早い。六月初旬――夏なのだから致し方のないことだ。
「今日、退院かあ……」
だからかわからないが、今日は久しぶりにその時の夢を見ていた。助けてくれって、何度も叫んでた。
何度も何度も何度も何度も。
「俺が、死ねばよかったのに」
もちろん、夕月は死んでなどいないが。いっそのこと、夕月が俺で、怪我だけじゃなく死んじゃえばよかったんだ。
「俺が死ねば、夕月は納得する?」
独り言のように――というか、実際独り言だ――呟くと、ふるふると首を振った。単細胞なのはどっちだ、俺。
夕月は他人の痛みを笑うようなやつじゃない。それどころか、どんなど阿呆の死でも悼むような優しい奴だ。
――俺が、踏みにじった。
全て俺が悪い。俺が、俺が。俺が、俺が、俺が。
夕月の全てを蹂躙した。最悪で、最悪で、最低な男。
……どれだけ自分を詰っても、この痛みは消えなかった。

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