力が欲しい。
それが、どんな力でも構わない。
勉学の力だって。スポーツの力だって。記憶力だって、体力だって、実行力だって、何だっていい。
崩壊寸前の私を救ってくれるのは、『力』しかないから。
「おはよー」
至極明るい声であいさつしながら、一人の女子生徒が私の席に近づいてきた。
「……おはよ」
私も小さくあいさつする。それでも目は合わせない。合わせるもんか、と、反抗にも似た行動を私はとる。
「さて、姫里ちゃん? 宿題はやってきてくれたかなー?」
まるで歌うように。私の席の真ん前に立ったその子は、手の平を私の目の前に突き出した。
「……やってきたよ」
ぼそっと呟くと、私は昨日の宿題だったプリントをその子に手渡す。すると、その子は歌を口ずさみながらそれを手にして席へ戻っていった。
溜め息をつきたくなるのを感じながら、私はぼんやりする頭で考えた。
――あと五人。
先生が来る前に渡さなくちゃいけないから、気持ちが急いだ。自分は何も悪いことはしていないのに。
ただ。六人の女子に「私の分の宿題、やって頂戴」と言われ、素直にやってきただけ……なのに。
逆らうことなんか出来ない。だって私には、逆らえるほどの力がないもの。悔しいけれど、あの人たちには、私の力じゃ敵わない。
だから――力が欲しい。
私にもっと力があれば……こんな思い、しなくて済むのに。
居場所がないなんて、
――嘆かずに済むのに。
「姫里ぃ、やってきてくれたぁ?」
残りの五人が来た。リーダーらしき女生徒が四人の女子を引き連れていた。中学校入りたての一年生なのに、先輩の目をはばからず、堂々とスカートを短くしているところを見ると、思わず顔を顰めそうになる。
「やってきたよ」
先程と同じ言葉で応答すると、五人組は満足げに笑い、私の手からプリントをひったくるように受け取ると、それぞれの席へ戻って行った。そして、半ば安堵している自分がいることに気付いて、溜め息をついた。
授業中が、私は好きだった。誰にも干渉されない、一人だけの空間。
「あっ…………」
私はランドセルの中を覗くと、小さく声を上げた。
「自分の宿題やってくるの忘れた……」
――どうしようもない。
こればかりは、自分の失態だ。
こういったことがしょっちゅうだから、先生に『出来の悪い子』だと誤解されるんだ。
そして私は、居場所を奪われていく。
私の安心していられる場所は、もういろんな者達の手によって、壊れていく。そして私の心も同じく、いろんな侵略者によって蝕まれていくのだ。
「ただいま」
あいさつしたところで、返事が返ってくるはずもなく。かえって虚しいとわかっているだけに、自分のやっていることの愚かさがいっそ笑い飛ばしたくなるほどのものであることがわかっているだけに。
悔しい。
惨めだと、思う。
それでもこの鬱々とした気分から逃れる為には、無理にでも楽しい気分にならなくちゃ、と。気持ちばかりが先走るのだ。
「楽しい、かぁ……」
夕食を作り終えた後、自分の部屋に入り、後ろでにドアを閉めて、そのままドアに寄りかかり、ぼそっと呟く。呟いてから、私はもうどれくらい笑っていないだろうと思った。
笑顔が、消えて。
声が、震えて出なくなるような錯覚。
段々と居場所がなくなっていく現実を目にしながら、日々恐怖と闘いながら、この先もずっと、生きていかなければならないのだろうか。
ずっと、ずっと――永遠に。
「……嫌だな」
私はベッドにダイヴして、ふかふかの気持ちいいシーツに顔をうずめながら、もう一度呟く。
「嫌、だな……」
そしてその言葉の味を確かめるため、ゆっくりと頭の中で反芻する。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
――――嫌、だ。
刹那。
ドカ、ともドシャ、とも似つかない音がした。別に慌てることはない。『ただ』母親が帰ってきただけだ。
「お帰り。今日はやけに早かったんだね」
玄関でそのまま寝そうになっている母を抱き起こしながら、時間は早くとも、飲んだ酒の量はいつもと変わらぬ……むしろ、それ以上であることを悟る。
「母さん、ご飯作ってあるけど……食べられる?」
母さんは体重を私に預けたまま、微動だにしない。私はこっそり溜め息をついた。
「余ったご飯、どうしよっかなぁ……」
野菜炒めと、菜っ葉の味噌汁と、ほかほかのご飯。
……きっと、必然的に明日の朝食になるだろう。
――母は、私が十歳の時に、父との離婚がきっかけでそれ以来、飲んだくれになってしまった。
自分から「姫里は私が育てる」と言って引き取ったくせに、よほどショックが大きかったのか、私を育てると言ったのは意地のようなものだったのか、真面目に働いたのはほんの少しの間。折角ほんの少しでも真面目に働いて稼いだお金も、半分以上は酒へとつぎ込まれた。
「ひめりぃ〜、くるしくてねむれない〜」
酒のせいで呂律が回っていないが、本人はそれを全く気にせず――気付いてもいないだろう。まだ酔いが抜けていない――私に手を伸ばす。
「はいはい、着替えようね」
私は母のもとへ、動きやすい素材の服を抱えて駆け寄ると、その口から漏れる酷い酒の匂いに、思わず顔を顰める。酷く酩酊しているらしい。
――これが、私の母であることは事実。
どんなに嘆いても、どんなに自分を哀れんでも、何も変わらないことはもう立証済み。今ではもう「しょうがない」の一言で片付けられるようになった。
ただ、稀に。
精神的に酷く疲労してしまった夜は。やっぱり願ってしまうのだ。
「力が欲しい」、と。
変かな? おかしいかな? 今は学校が別になってしまってもういない親友――幼稚園からの幼馴染だったが、中学で別れてしまった――に言ってみたら、思い切り変な顔されたけど。
「力が欲しいなんて、星に願うようなことじゃないよ」
だってさ。
私は唸り出した母さんの背中を軽くゆすってやりながら、深く溜め息をついた。
「母さん、気分はどう? 大丈夫?」
「うー…………」
母は急に、私の方を向いた。
少し淀んだ母さんの瞳に凝視されて、私は訳もなく居心地の悪さを感じた。もうずっと、こうして目を合わせていなかったような気がする。
「ご、めん……ねぇ……」
いきなりの謝罪に、私は動揺する。
「大丈夫、母さん? 今日はもう、寝たほうがいいよ」
しかし、そんな私の言葉が理解できるのかそうでないのか、母さんはふるふると弱々しく首を振る。そんな母さんが、何だか酷く小さく見えた。
「ごめん、ごめんねぇ……新しいパパ、絶対家に連れてきてあげるから……もうちょっと、待っててねぇ」
――瞬間。
私の中で、何かが弾けた。
大切な何かが、粉々に。
――砕けて。
バラバラに、
――弾けた。
「……いらないよ」
母は微睡んだ瞳で私を見上げる。
「いらないから。母さんが本当に愛している人は、父さんだけでしょ? だったら、私は父さん以外の……形だけの『パパ』なんて、いらない……から」
今私が口にしている言葉だけで、どれ位母さんが傷つくだろう。
どれ位私は、悔やむのだろうか。
知りたいとは、思わなかった。結果は既に、目の前に見えている。
「私、そんなものより、母さんが欲しい。いっつも笑って、いっつもはつらつとしてて……いっつも元気な『ママ』が、欲しいの」
溢れ出てきそうになった涙を涙腺の奥に押し込め、私は静かに、立ち上がった。
「あ、ひめ、り……」
「ここに着替え置いておくからね。ちゃんと布団かぶって寝ないと、風邪引いちゃうからね」
少し涙声になってしまったのは、眠いからってことにしておこう。
「待って、姫里、待って……!」
酔いが醒めて来たのだろうか。いくらか言葉がしっかりとしたものになった。しかし、口調は相変わらず弱々しく、私はそんな母を見ていられなかった。
たった一人、それでも大きな存在が消えてしまった為に、母さんの心に穴があいた。そして日に日に弱り、小さくなっていく私の母さん。
――違う。
私の知ってる母さんは、こんなのじゃなかった。太陽のように笑う人で、滅多に泣かない人だった。
それが、今はどうだ。
私は母さんに背を向けたまま小さく、呟くように言った。
「……明日、起きたら冷蔵庫にあるもの温めて食べてね。本当はほかほかのご飯食べてもらいたいけど……生憎明日は日直なもので」
へへ、と笑うと、母さんは悲しそうな微笑みを返してくれた。きっと私が、上手く笑えてなかったからだ。
「おやすみ」
ちいさく、独り言のように言ったつもりだったが、母さんはちゃんと言葉を返してくれた。
学校に私の居場所はない。
そして家にも、私の居場所はじきに、なくなるのだ。『もう一人のパパ』によって。
――ああそうだ。
また今日も、宿題やんなきゃ。
今度は自分の宿題も、しっかり。

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