「お前馬鹿か?」
 そう言われてムカッときた。言われたのは初めてではないが、馬鹿と思われた内容にむかついたのだ。恐らく十中八九怜君のことだろう。
「あいつ、誰も相手にしねえじゃん。普段のお前なら全く相手にしねえのに、どうしたんだよ?」
「うるさい」
 俺はいじけたフリをしてそっぽを向く。いくら友人だからといって、許されると思うなよ。
「ってか、見てたのかよ」
「ああ。あの時のお前の、まるで時が止まったかのような、あいつの視線で石にされてしまったかのような、恐ろしく面白い顔までしっかり」
 俺は更にむくれて席を立った。そのまま廊下に出る。
「あ、おい、どこ行くんだよ?」
「便所」
 一言だけ吐き捨てるように言うと、「あ、そ」という簡潔な答えが返ってきた。しかし、勿論俺はトイレになどいかなかった。屋上にまっすぐ足を向け、扉を開ける。
 何と言うか、予想はしていた。だってあいつは授業なんてほとんどサボってるし、屋上が昼寝の穴場だってことも俺が話した。……覚悟も、できていたんだ。
 いや、でも有り得ない。まさか、
「怜!」
 ――女の子とキスしていたなんて、想像のしようがないだろう。
 屋上扉というものは、よく漫画やアニメでは重苦しい扉で、ギィとか古臭い音を出しちゃったりするのだが、俺の学校はスムーズに開く扉だった。
 音もなく開いて、俺の聴覚も音を見失う。
 そのキスは、随分長かったように思えた。怜君は多少驚いているのか目を開いたまま、しかし平然とそのキスを受け入れている。俺は動けなかった。
 やっと唇を離したかと思うと、女の子は頬を赤らめながら、
「私、本気なの」
 と言った。そう言う彼女はとても魅力的だった。それに対して怜君は、笑みを作る。
 ――しかしそれは明らかな嘲りだった。
「可愛ければ何をしてもいいと思うのは間違いだよ」
「違うの! い、今のはそんなつもりじゃなくて……」
「衝動的にやってしまったものなら何でも許される。そう言いたいの?」
「ち、違ッ――!」
 女の子の方は、可哀想に、瞳いっぱいに涙を溜めている。涙は今にも零れ落ちそうで、俺は怜君に対して、一瞬殺意めいた感情を抱いてしまった。
「女ってさ、泣けばいいと思ってる訳?」
 女の子が後退る。一歩、二歩。
「別に君、って限定してる訳じゃないけどさ」
 また一歩。
 怜君の嘲笑は消えない。顔に張り付いたまま離れることはない。
「僕、君みたいな女は嫌いだね」
 ――逃げ出した。
 女の子じゃなくて、俺が、だ。
 立っているのが辛かった。
 あの子――C組の相崎唯は、俺の想い人だったからだ。
 ……好き、だった。
 大好きだったんだ。

 男ならば当然のことだが。
 俺は次の日、怜君を殴りにかかった。昨日、怜君があんなこと言わなければここまで怒ることもなかっただろう。即ち、怜君が「OK」していればまだ諦めもついていただろう、ということだ。しかし怜君は拒んだ。それもあんな無情な形で。
 俺の惚れた女の愛情を、無下にして。
「……何?」
 心底嫌そうな顔で、怜君はそう俺に問うた。だから俺も心底憎いような顔で睨んでやった。もう怜君の視線にもびびったりしない。
「お前、昨日唯になんて言ったか、自分でわかってんのかよ」
 怒りで声が震えた。怜君は、
「ああ、見てたの」
 なんて、嫌に冷静だ。……いや、いつものことか。
「何? あの子、あんた好きなの?」
 図星だった。だから俺は悔しくて、でも黙り込んでさもさも当たりですよ、と知らせてやるのはそれ以上にもっともっと悔しくて、だから叫んだ。呼び出したのが屋上でよかった。
「ああ、好きだよ。大好きだったよ! 一目惚れってやつだよ、悪いかこの野郎!」
「それで僕に八つ当たりしにきたってわけ」
 俺は怜君の胸倉を掴んでやりたいような気持ちにかられたが、なんとか抑えこんだ。ここで手を出したら負けだ。嗤われて終わるだけだ。拳を握ってぐっとこらえる。
「……ひとつ、教えてあげようか」
 怜君は屋上のフェンスにもたれて、人差し指で「1」を作った。俺が黙っているとそれを肯定ととったらしい。怜君はゆっくりと言った。
「昨日、君が走って逃げた後」
 その言葉と同時に、俺は赤面する。見られていた。知っていたんだ、俺がいたことも、見ていたことも、逃げ出したことも、全部、全部。
「彼女もその後逃げ出したんだよ。だからその背中に言ってやったんだ」
 心拍数が自然と跳ね上がる。自分のことではないが、とても嫌な予感がする。
「『そうやって悲劇のヒロインを気取るつもりなんだろう、女はいつもそうだ』……ってね」

 ――殴った。

 力いっぱい。悔しい。悔しい、悔しい。悲しかった。どうして彼女はこんな男を選んだのだろうとも思った。とにかくいろいろな感情が交差して、俺は叫びながら殴った。二回、三回。
 怜君は、痛そうに顔を僅かに顰めながらも、しかし声を上げたり自分で自分をかばったりはしなかった。それをいいことに、俺は殴る。四回、五回。
 ……不意に、怜君が高笑いをした。俺は驚いて動きを止める。怜君も高笑いを急に止めた。そして、いつも通りの嘲笑。しかし、今回はいつもとどこかが違った。殺気が漂っていた。正直言ってしまうと、俺は少し怖かった。
「……みんな、そうだよな」
「は……」
「みんなみんな同じだ。クソどもと一緒だ! 気に入らなければ暴力に頼って人を殴る、蹴る、罵る! どこも変わっちゃいない。あのクソババアもそうだった」
 怜君の瞳は狂気すら孕んでいた。俺は呆然とその場に立ち尽くす。
「世の中の人間はみんなクズだ! クソだ! 生きてる価値もねえ奴らばっかり生きてやがる! お前、お前も一緒だよ。お前もクズだ――ぐっ」
 殴った。怜君は俺に殴られた右頬を押さえて、表情を消して黙り込む。俺は小さく「お前だ」と呟いた。
「悲劇のヒロイン気取ってんのは、お前だろ」
「…………」
「お前に他人の何がわかるんだよ! 何もかもわかったような顔しやがって。あの不良の中にだって虐待された奴がいるかも知れないし、唯だって……虐め、られてて。一年生の頃なんて、ラブレター男子全員に回し読みされて。でも諦めなかったからまた人を好きになることができた。それで、勇気出して告白して……」
 何で、お前なんだ。何で、俺じゃないんだ。
 怜君なんて、最悪だ。
「何で、どうしてわかってやれないんだよ。お前、唯のこと、少しでも考えてあげたか。お前、今目の前にいる奴のこと、わかるか。何が趣味で、どんな人がタイプで、家庭はどうなっていて、好きな、人は……――」
 駄目だ。
 男泣きなんて、こういう時に流す涙じゃない。恰好悪い。最悪だ。逃げ出したい、昨日みたいに。
「……目の前にいる奴のことなら、知ってるよ」
 怜君は力なく笑った。俺はへ、と聞き返す。
「最近は読書が趣味で、星新一にはまってるんだろ。大人しいけど活発な、矛盾してる人が好みで、家庭はすっげえ穏やかで、逆にハプニングが欲しいくらい。好きな人は――」
 それ以上、言わなかった。でも、それだけで充分だった。俺も力なく笑った。
「全部、お前が言ったことだよ」
「……なんだ、聞いてたんじゃん」
 俺の、一方的な話。ずっと無視され続けてきたけど。
 俺はその場に座り込んだ。
 もう、心がついていかない。全部に。

 それからは、少しずつ心を開くようになってきた。しかし――俺を中継点にして。
 俺が「こういう時はあいさつぐらいするんだよ」と言うと、怜君も素直に(渋々ではあるが)あいさつするし、「もうちょっと感謝の気持ちを持て!」と怒鳴ると、これまた渋々お礼を言う。そのくらいには成長した。
 その仕返しのつもりなのか、俺にはものをずけずけ喋るくせに、他の人には言わなくなった。それなら俺にも気をつかってそういうことを言わないでくれ……と何度言っても「あんたはムカツクから嫌だ」の一点張り。最近は怒りより呆れがくるようになった。
 唯に謝りにも行かせた。
「……ごめん。言い過ぎた」
 たったそれだけ。それだけの簡単な謝罪。そうしたら唯は、
「許さないんだから」
 と、泣き笑いしながら言った。
「こうなったら振り向いてくれるまで世界の果てまで追っていっちゃうわよ」
 なんてことも言っていた。俺はそれを隠れて聞いていた。怜君がきちんと謝っているかを監視しに来たんだ、別に唯の様子を見に来た訳じゃない……と、心の中で言い訳をする。
 唯、辛いのを我慢している。そう思うと、胸が、ちくりと痛んだ。
 でも、あの時のような絶望は押し寄せてはこなかった。
 だって、なんとなく安心そうだったから。

 怜君は、俺の家によく遊びに来るようになった。
 しかし、大抵は父さんの書斎を漁って本を読みふける。その時怜君は時間を忘れているみたいで、気がつけば三時間経っていた、なんてこともざらじゃない。現在進行形。
「……おい、今日いい天気だぜ」
「あっそ」
「……外、気持ちよさそ」
「ふーん」
「……外で遊んだら楽しいだろうなー」
「…………」
 最終的には無視ですかそうですか。俺の努力はいつも水泡に帰す。しかし、それはそれでいいのかもな、とも思った。怜君が外で楽しそうに遊んでる姿なんて死んでも想像できない。なら、無理に遊ばせなくてもいいか。俺も読書好きだし。
 そして、気まぐれに怜君は去っていく。その間、ずっと読書、ということでもない。ほんの僅かな会話だってするさ。
 本の話をしてると、この話題だけは。性格なんて正反対なのに、楽しいんだ。
 時々、共通の趣味はひとつしかないのに、どうしてこう頻繁に会い、こうして書物を読み漁っているのか、考えた事がある。しかし結局答えらしいものにはいきつかなかった。多分、あのことがあって怜君の事情みたいなものを知ったのが俺だったからだろう。そして、理解できたのも俺だったからだろう。
 そして、俺も。
 共通の趣味がたとえひとつだけだったとしても、きっとそれは数の問題じゃない。ただ、一緒にいて井戸こちがいいか、安心できるか……そういうことなんじゃないのかな。上手く言えないけど。
「俺、森鴎外の『舞姫』好き」
「やっぱり中島敦の『山月記』だろ。舞姫二回読んだけど擬古文さっぱり」
「馬鹿」
「うるせえ」
 こういう会話の方が、似合ってる。怜君も、俺も。