どこに行くのか聞こうとして、失敗した。というのも、怜君が先に「なんか買ってくる」と言ったからである。
怜君はそのまま俺の家を出て行った。俺は、行き先を言うだけで急に出て行くのはいつものことだと諦めた。ただ怜君は、来たい時に来て、勝手に書斎を漁って、本を読みたいだけ読んで、出て行きたい時に出て行く。世に言う「自己中心的」。
しかし、怜君のいろいろなことを知っている俺は、その性格をどちらかというと「個性」として受け止めていた。
ことの始まりは、そう、忘れもしない、一昨年の夏。
その日も、蝉が煩く鳴いていた気がする。
怜君は転校生だった。いきなり中学三年生の時に俺のクラスにやってきた。転校生と言うのは得てして虐められるものである。クラスの不良が(学校に来ているだけマシだが)怜君を虐めている様を、俺はぼんやりと傍観していた。
「なんで無口なんですかー? それでもカッコイイつもりかよ、てめえ!」
からかうような口調。かと思えばいきなり怒って怒鳴りつける。そして机を蹴り、反応が全くない怜君を見て更に苛立ち、暴行はエスカレートする。
俺は休み時間の間、特にすることもなく、ぼけっとしたまま怜君を見つめた。ちょっとでも痛いフリしていればそんなに叩かれたり蹴られたり罵られたりしないのに。きっと慣れているんだろうな。それとも、ただ単に強がっているだけかな。そんなことを考えた。
「っつーかてめえ、本ばっかり読んで気持ち悪ぃっつーのっ!」
不良グループの一人が、本を引っ手繰った。あ、っと思った。次の瞬間にはページから表紙からビリビリと、滅茶苦茶に引き裂かれてしまった。怜君はやっぱり、無表情で見つめている。それから、呆れたような口調で言った。
「やれやれ。単細胞だね。やることなすこと全部、マニュアル通りの不良って感じ。因みにそれ学校の本だから。少しは読書した方がいいよ、君たちも」
すらすらと。何の淀みもなく。俺はちょっとひやひやした気持ちで怜君と不良たちを見つめた。勿論不良たちは怒りに震えている。怜君は何事もなかったかのように、引き裂かれた本を拾い、机の中に押し込む。そして新しい本を机の中から、入れるついでに引っ張り出し、読書を再開した。
「……ナメテんのか、てめえ」
押し殺したような声で不良のリーダーらしき人が言う。
「さあどうだろうね。君たちにそこまでの価値があるとも思えないけど。あえて言うなら」
怜君は、本から顔を上げた。そして唇の端を吊り上げて、ニヤッと笑う。なかなかにあくどい笑顔だった。
「アウトオブ眼中?」
――その後、怜君がどうなったのか俺は知らない。堪えきれなくて教室を飛び出してしまったからだ。それから予鈴が鳴るまで、誰もいないトイレで思い切り笑い転げた。あ、いや転げてないけど。汚い。とにかく、そんな面白い転校生だったので、不良からは嫌われ、みんなからは好かれた。
ただ、まともに返事をしている場面を、何回見たのか数えられるくらいだけど。
怜君は、「自分と他人」とで境界線をしっかり引いていた。誰かがそれに踏み込んでくることを許さず、自分も自らそのボーダーラインを越えようとは思わない。
だから俺としては、物足りなさというものが勝った。けれど、そんな生き様に。この上ないくらいの興奮と憧れを感じたのも事実だったので、その日以来、積極的に怜君に話し掛けるようになった。
大抵は無視された。ただ、本の話題を持ち出すと応答することがわかった。俺の家は父さんが書斎を持っていて、そこには膨大な数の本が眠っていた。これは必然なのだ! と叫びながら俺は必死で書物を読み漁り、怜君との距離を短くしていこうと企んだ。
数日たった後かも知れない。俺が、
「大塚先生呼んでた」
というと、怜君は頷いただけだった。俺は思い切って、
「ありがとう、とかサンキュ、とか、言えばいいじゃん。他人とのコミュニケーションも、大事だと思う。っていうか、礼儀だって」
と言ってみた。俺だって人並みに腹は立つさ。それを怜君は、
「僕は困らない」
「それはちょっと勝手すぎだろ。学校に来て、他人と触れ合うからにはそういう礼儀はわきまえるべきだ」
「それって不良全否定じゃん。そういう人たちが、ここは野ざらしにされている気がするけど、僕の気のせいかな?」
俺は答えられなくて、返答に詰まった。怜君はふうと溜め息をついて、呆れた口調で言った。
「いるよね。そうやって正論振りかざす奴」
俺は瞬間、怒りが爆発した。普段ならこれぐらいで怒ったりはしない。問題は、あのどうしようもない不良と一緒にされたことだった。怜君の、今の俺に対する口調、表情、どれをとってもあの時の不良に対する態度と一致する。嫌だった。心底嫌だった。
気づいたら、早々に立ち去ろうとしていた怜君の腕を思い切り強く掴んで引きとめていた。
「お前、人を馬鹿にしすぎ」
睨んでやったが、全く効いていないみたいだった。だから今度は口調を強くした。
言葉も一瞬の間にいろいろ考えなければいけなかった。隙を見せると、すぐに揚げ足を取られてしまう。俺は脳味噌をフルに回転させた。どうにか屈服させようとしていた。俺を出来損ないと一緒くたにした奴を。
「俺が正論振りかざしてるんだったら、お前は理屈こねまくる詭弁家だ!」
あれだけ口が回るのに。
「何で『ありがとう』の一言、たった五文字が言えねえんだ! このド阿呆!」
言葉を吐き出してしまうと、ようやくスッキリした。しかし相手の反応を見るまでは何となくこの掴んでしまった腕を放せない。俺はじっとして、怜君の返事を待った。
すると怜君は、いきなり笑い出した。
「ははっ、あんたサイコー! マジでうける! 俺に面と向かって反論してきたの、あんたが初めてだよ」
しばらく腹を抱えて笑っていたかと思うと、おもむろに俺の顔を正面からじっと見つめた。その顔からは、笑顔が消えていた。そして恐ろしくなるくらいに怖い顔で、言ってきた。
「でもさ。俺ってウザイ奴嫌いなんだよね」
本当に視線で殺されるかと思った。
「俺がどうあろうとあんたには関係ない。そんだけ暇なら俺じゃなく不良君の相手でもしてな」
そう言うと、怜君は、腕を掴んでいる俺の手を乱暴に振り解いた。簡単に腕は抜けた。当たり前だ。俺はほとんど力を入れていなかった。怜君は軽く腕をさすりながら、呆然としている俺の脇をすり抜けて行った。
ちらりと横顔を見たが、怜君はこっちを一切見ていなかった。その瞳は、俺を拒んでいた。「用件だけ伝えてさっさと消えればいいのに」と言われているようだった。俺はどうしようもなく苛ついて、「なんだよ、クソッ」と言いながら地団太を踏んだ。
あいつ、ちょっと面白い奴かと思った。
けど、何だ、最低じゃん。

|