ラケットをくるくる回す。誰でもやってるけど、私の癖。
 硬式とは違い、白くて柔らかいボールは、手の中で自由に形を変える。ぎゅ、と握るとぐにょ、と潰れた。
「ゲームカウント0−3」
 ゼロスリー、と元気よく審判がコールする。いや、元気がいいのではない。個人戦は負け審判だから、彼女も負けたのであって、私がそう聞こえるだけだ。だって、私は今、一ポイントも取れていない。
「大丈夫だよ。絶対入るよ」
 と、サーブを打つ前に緊張する私に、相方の明里が声をかけてくれた。頷く。返事は? と聞かれて、思い切り「はい!」と返事をした。明里はにこっと笑ってまっすぐ前を向く。もう彼女の目には笑みはなく、その表情は真剣そのものだった。かっこいいな、と思うあたり、緊張がほぐれたのだろうか。
 ボールを高く上げて、それをラケットで打つ。単純だが一番難しい。これは上手くいった。入った。勢いもある。
「っ!」
 声にならない声を上げて相手が打ち返してくる。相手も必死なんだ。最後まで気が抜けないんだ。勝ってるのに。
 私も声にならない声を上げてそれを打ち返す。白い球は相手コートへとまっすぐに伸び、それはラインギリギリに入った。でも、相手もそれを打ち返す。
 ――どうしよう。私のところに来ないで!
 と思いながらボールを打つ時、必ず失敗する。
 ほら、ネットだ。
「ごめん」
 本当は好き好んでこんな言葉を言いたいわけではない。私は唇を噛み締めた。最初の一本が大事なのだ。私はチャンスに弱いけど、ピンチにも弱い。
 最悪じゃないか。
「次、次。弱気になっちゃ駄目だよ」
 少し厳しい口調で言われる。その通りだ。頷く。ごめん、だけどありがとう。私はもう一本頑張る。だから前衛である明里に決めてほしい。最高の状態で。最高のパターンで。
「私の立ち位置も悪いかもね。ごめん。次、レシーブのコースがはっきりわかったら出てみるから」
「わかった」
「サーブ、入るよ。さっきみたいなのお願い」
「了解」
 どちらともなくにこっと笑って、自分の定位置に戻る。相方の背中を見つめながら、私は力の限りサーブを打った。こういうのはもう気持ちだ。腕がどうとか、腰の曲がりがどうとか、そういうのは気持ちが一番左右するのだ。だから、入らないかも、とか、お願いだから入ってよ、とか、考えないことにした。なうようになるさ。そら行けッ。飛んで行け!
 サーブは入った。相手もいいボールで返してくる。あ、明里が出た。気持ちのいい音を響かせながらそのボールは真ん中に行き、二人を割るようにして決まった。思わず「よしッ」と言いながらガッツポーズを天に向かって突き上げる。
「もう一つ、もう一つ。リードしよう」
 素晴らしいボールを決めた明里も笑顔だ。私は大きく返事をして、明里にボールを渡した。「入るよ」とも言う。笑顔で頷いてくれた。
 実際、明里のサーブはすごかった。
 いい音でそれは真ん中に入った。相手は慌てて返すが、短くなる。明里はサーブと同時にダッシュをしていた。ハーフボレー、またはローボレーと言われる極めて難しいボレーを鮮やかに決めた。
 サーブ&ボレーだ。
 ――もう一本、もう一本。
 心の中で呟いていたつもりが、声に出していたらしい。明里がうん、と頷いてくれた。
「入るよ」
 と、どちらかがサーブを打つ前の儀式になった言葉をかける。しかし、それが必ずどちらの力になることをどちらも知っているから、やはりこの儀式が必要なのだ。
 儀式を経た明里のサーブが綺麗に決まる。すごい、と思ったらもう明里がボレーを決めていた。
 唖然としたのは相手ではない。見慣れたはずのプレーなのに、私まで見惚れていた。やはり、明里のサーブ&ボレーはすごい。いや、明里のプレーは総じてすごい。
「入るよ。リラックスして」
 儀式。
 無論、入る。
 今度は、明里が出てくるのを恐れて、ロブで私の方にボールが返ってくる。強いボールで打つ。入る。気分が沈んでいないから、むしろ浮上しているから入る。しかし上から叩きつけるように、まるでスマッシュのように打ってしまったので短くなる。やっとのことで相手が返してくる。
 ――短い!
 瞬発力はいい方ではない。でも、これは何としても取らなければいけなかった。このポイントを取られると、相手はあと一本で追いつく、と思ってホッとすると同時に調子付くし、こっちなんてテンションがた落ちだ。明里は「仕方がないよ、今のボールは」と言ってくれるだろう。でも、一度沈んだ雰囲気と気持ちを切り替えるのは難しい。
 ――取らないと。
 あのボールを、取らないと!!

 そればかり考えていた。
 だから最初、自分がどうして転んだのか理解できなかった。

「え?」
 次の瞬間、猛烈な痛みとなってその自問の答えが返ってきた。
「痛っ」
 明里が私の名前を呼んで駆け寄ってくる。驚いている。相手も驚いているようだった。ああ、どうしよう。ボール取れなかった。ごめん、ごめん明里。ただ、痛みで「ごめん」という言葉を口にすることができない。立てる、私はまだやれるよ。
 でも、立とうとしても何だかもう、全身から力が抜けていくようだった。
「足、つった?」
 と聞かれた。そうかも知れない、とようやく答える。ちょっと先生呼んでくる。明里はそう言って踵を返したが、ベンチにいたコーチが「いい、俺が呼んでくる」と言ったので、明里は私の方に向き直り、「立てる?」と聞いた。
 足を動かすと痛かった。少しだけ動かしても同じで、私は弱々しく首を振るほかなかった。
 ――やがて、救護の先生やら役員に選ばれている他の学校の監督、コーチ、次々とコートに入って来た。
「肉離れかもしれないですね」
 と、救護の先生……金平先生は心配そうに言った。相手の監督も様子を見に来ている。私たちのコーチも見に来ていて、私は先生たちと明里に囲まれて嫌な思いをした。
 立てる。きっと立てるよ、大丈夫だよ。

 しかし結局、三ポイント連取されて負けた。
 当然だ。だって、私は走れなかった。



 ごめん、と言いたかったけど、明里が一生懸命励ますので、その言葉が自分を、それだけならいいが、明里までも惨めにしそうでやめておいた。きっと、明里だって悔しいはずなのだ。それを笑って励ましてくれるのは、この敗北は誰のせいでもなかったからだと言える。
 明里は私を責めたくても、敗北の根底にあるものは私の怪我であって、私のミスではないから責められないのだ。もっとも、私のミスであっても責めることはないだろうけど。
 ――最後の、大会だったのに。
 そう思うと、泣けてきた。目を潤ませて、終いには涙を零してしまうと、明里もそんな私を見て泣いた。本当は駄目なんだ、泣いたら。でも、止まらなかった。
 悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい。
 何度そう言っても足りないくらいだった。
 涙が枯れた頃、明里がぽつりと言った。
「声、出てたよ、私たちの方が」
「……うん」
「私たちの勝ちだよね」
「……そうだね」
「あ、負け惜しみじゃないよ」
「わかってるって」
 そう、本当にそう思っているのだ。負け惜しみでなければ馬鹿だ、と相手は笑うかもしれない。でも、私たちは、技術はもとより、「気持ち」と「声」を重んじて練習している。だから今回も、声では圧倒的にこちらの方が勝っていたから、それは私たちの中で勝ったも同然なのだ。
「あーあッ!」
 急に明里が大きな声を出した。
「終わっちゃったねー!」
「うん、終わっちゃったね」
 涙がまた滲み出てくるかと思ったが、涙は一滴も出てこなかった。それどころか訳もなく笑いがこみあげてきて、くすくす笑うと、明里が驚いたようにこちらを見た。あ、まずかったかな、と思っていると、明里も声を上げて笑った。
 理由なんてなくていいと思った。だって、笑えるってことは、それなりに今回の結果に悔いはないってことだし。いや、悔いはあるけど、納得できたし、精一杯戦ったし……。
「もう、いいよね。頑張ったって言っても」
「うん。私たち、頑張ったよ」
 今までは、どんなに劇的に勝利しても、決して自分に満足しなかった。満足したら終わりだと言われたから。何より、私たち自身がもっと上、高みを目指していたから。
 今、何よりの、自分へのご褒美を与えてもいいと思う。

「頑張ったね」
「頑張ったね」

 また涙が滲んできたが、もうこれは悔しさではない。三年間の思い出が、陽炎のように記憶の中をさ迷って、今の今までずっと頑張ってきた自分たちが、とても愛おしく思えたのだ。