それは愛なのです。 7/21(月)
ソフトテニス?
なんてマイナーなスポーツ!
と、初めてその名を聞いた時はそんな風に思ってしまったことは今となっては誰にも話せない秘密である。なぜなら、今まさにその「マイナーなスポーツ」であるソフトテニス部に入り、高校生活をエンジョイ中だからだ。
「終わり! 後衛練習!」
「はいぃ!」
夏の暑さで汗だくだくになりながらも大急ぎでボールを拾い、移動する。ラケットが汗で滑る。グリップを巻きかえなきゃな、と思う暇もない。帰ってから思う。
こんなにきつい練習、大嫌いだ。ならなんでやるのか? 何度も自分に問い掛けるが、結局答えは「わからん!」で終わる。
その問いに答えたのは次の大会だった。
試合。
勝った時の――。
あの、あの気持ち。
それが俺をソフトテニスに縛って離さない原因である。
「サーブ練習!」
「はいいぃッ!」
だから俺は、炎天下の空の下、土で茶色くなったボールを、なりふり構わず、必死になって追いかけるのだ。
転んでもおっかける 6/7(土)
あれ?
と、首を傾げた途端、ボールはあらぬ方向に飛んでいってしまって閉口した。
相方の口から溜め息が漏れる。僕は申し訳ない気分でいっぱいになりながらちらりと相方――周平の表情を盗み見る。
「まいどん」
どんな声のかけ方だ。
「ドンマイと言え」
思わず突っ込んでしまった。
「まあ、ゆっくり取り返そうぜ。焦らずに」
「……難しいな」
「お前って結構小心者? 一本の重みをそんなに大事にする奴だっけ」
うるせえ。
僕は憮然となって言い返そうとしたが、ここで口論しても仕方がない。そうだな、とだけ返しておいて、自分の低位置に戻った。
黄色いボールを追いかけるだけの競技が、どうしてこんなに面白いんだろう。
こういう場面でも面白いと感じるのだから、僕のテニス好きも相当なもんだろう。それに素直に喜んでいいのかわからなかったが、喜んでおくことにした。
「さて、反撃開始ですな」
周平が揶揄を含んだような口調に言うものだから、反発して「絶対取り返してやる!」と言ってしまった。まあよしとする。
黄色いボールと共に大きな夢も追いかけるから、きっとテニスはこんなに楽しいのだ。
惜別 5/12(月)
「おやすみ」
と言うと、そいつはまだ寝たくないとでも言うように俺を睨みつけるが、そんなの知ったことか。
「電気消すぞ」
「まだ寝ない」
「お子様は早く寝ろ」
「子供扱いすんな」
「……ガキだろうが」
「七つしか違わない」
七つも違えば充分だと思うのだが。とにかく俺は溜め息をつきながら電気を消した。そいつはぶつぶつ文句を言っていたが、やがて健やかな寝息が聞こえ始めてようやく俺はベッドを抜け出し自分の仕事に取り掛かった。
パソコンのキーを打つ。あまり音を立てないように。寝息を最初のうちは確認していたが、疲れてくるともう耳に入らなくなっていた。
――で、気づいたら後ろでそいつが興味津々、といった感じでモニターを覗き込んでいた。
「何書いてんの」
「仕事だ、寝てろ」
「先生の仕事?」
「そうだ、邪魔すんな」
「馬鹿みたい」
「……ガキが」
悪気があって言ったわけではないのだろう。だから俺は大人の社会など知らなくてもいい、という意味合いを込めてそう言うと、そいつは予想に反して拗ねたりしなかった。
「……教師、ねえ」
「…………」
「なりてえな」
「無理言うな」
なるべく感情を殺してそう言う。しかし、その瞬間、そいつの顔がくしゃっと歪んだ。
「……お前はもう、帰れよ」
今度は優しく言ってやる。髪を撫でようとして、やめた。どうせ悲しませるだけだ。
「行きたくない、俺はここが好きだ」
「この世界はもうじき地球温暖化でいろいろやばいことになるからすぐ嫌いになるよ」
「世界のことはどうでもいいんだよ」
困ったガキだ。何が教師だ。逆に諭されてどうすんだ。
「……もう、帰れよ」
そいつに向かって、はっきりと言う。酷な言葉だ。
「ここは、何年経っても……変わらんねえから」
束の間、逡巡したようだ。
それから、そいつは立ち上がって窓の方へ歩いていった。窓の外には星すら見えない。
窓を開けると、そいつは一回、後ろを振り返った。
「バイバイ」
そいつは窓から身を乗り出して……
透明になっていく後姿を、俺はいつまでも見ていたかった。
そして消えた。
「……明日は雨だな」
なんとなくそう呟くと、明日はそいつの涙が降ってくるんじゃないかと思えた。
さよなら。 4/12(土)
――だから私は、「さよなら」と言った。
赤い線が腕に数本、並ぶ。
少し膨れたその線は、確かな自傷の証で、私はその傷を撫でると、ほっとした。
自身を傷つけることで得られる心からの安堵。
――優しさ。
傷は少し、熱を持って温かい。
嫌なことがあった時。それに耐え切れるほどの強さなど持ち合わせていない私は、簡単に切れるカッターではなく、自らの爪で自分の皮膚を傷つける。刃物より相当な力が必要だが、その方が痛みが強く、「ああ、自分は今自分自身を傷つけている」という思いが余計強くなって心地いい。
その傷は、大抵は制服の下に隠しておく。誤って何人かに見られたかも知れないが、どうせ友達などいないので関係ない。
ただ、露骨に、
「うわ!」
と驚きを示したのは、彼だけだった。
「それ、痛くない?」
痛いよと答えると、じゃあなんでそんなことをするのかと聞いてきた。変な人だなと思いながら、そうしたいからと答えると、変わってるなと言われた。
変わっているのは、あなたの方でしょう。そういい返したかったが、言葉にできない。口を開かなければ、余計なことを言ってしまわなくて都合がいい。
それを思い出したから私は、軽く「じゃあ」と告げて彼の横を通り過ぎてゆく。
彼は、頻繁に話し掛けてきた。私は簡単に返事をするだけで、でも話し掛けてくれることに嬉しさを感じていた。
鳴り響く危険信号は、
一体どちらのものか。
私は彼を傷つけたくなかった。
ありがとう、私に触れてくれた人。
あなたのことを、ひょっとしたら私は好きだったのかも知れない。
――だから私は、「さよなら」と言った。
それはぼくの証 4/1(火)
色も鮮やかなその景色に騙されて、誰かがこの森にやってきた。
少年だ。ぼくは身構える。
手に持っている尖った石を、痛いくらいに握り締める。小さいからって、油断しちゃいけない。ぼくも同じくらいの背丈だから、負ける可能性も十分にありうる。
「……だあれ、」
と、少年が、茂みから身を躍らせたぼくに気づいてそう問う。ぼくは警戒心も露に、牙を剥いた。
「きみはここを守っているの?」
少年が首を傾げてそう言う。その視線は手の中にある石へと注がれていた。
守っている。だからきみを、ここでころさなければいけない。――ぼくは少年に飛びつき、そのまま押し倒して、首筋に石を押し当てた。ひっ、と、少年の息を呑む声が聞こえる。
ああ……響く。
体中に、その恐怖が。恐怖の色が。声が。感覚が。
それは快感。それは恍惚。
もっと……苦悩に満ちたその声を、
キカセテ。
「きみは、ぼくをころすの?」
ぼくは無言で石を押し当てる。少年が微かに呻いた。そうさ、ころす。ころすのさ。何度もそうしてきた。きみは運が悪かったんだ。久しぶりの客人。女もいたし、子供もいた。きみみたいな。みんな、土に還った。ぼくがそうした。
「きみは、一人きりで森を守っているの?」
苦しそうに、少年はそうぼくに問うてくる。
「それは……寂しいね」
そう。
ボクハサミシイイキモノ。
だから、人の血を愛する。温かい血。苦悩の声は生きている証。ぼくがまさにころそうとしている証。失われてゆく体温は、ぼくがぼく自身を森に置き去りにした証拠。
寂しいからぼくは、誰かをころして余計に一人になろうとする。
それは、矛盾している行為だった。それでも、生きている人を見ると無性にころしたくなるのだ。ぼくをおいてどこかへ行く前に、ここでころしておく。それがぼくにできる、唯一のこと。
――守る、なんて嘘で。気づけば森から出られなくなっていただけで。
ボクハサミシイイキモノ。
「ぼくは、ここでしぬことになるのかな」
少年は尚も苦しそうに言い募る。
「きみといっしょなら、ぼくは寂しくないね」
ぼくはその時、明らかにおかしかった。
今まで、この森に入ってきた人はみんなこの手でころしてきた。それがなぜ、どうしてそうすることをしなかったのだろう。
きっと、ぼくは寂しかったんだ。でも少年はきっと離れていかない。だからぼくはここで生きることを許した。少年がもし逃げ出そうとしたら、その時は自らの首筋にこの石を突き刺して死のう。
――それは、この少年を信じた証。
――真紅の血は、ぼくが生きていた証。
てをつなごう。 3/15(土)
――雨は、神様の涙だと思っていた。
昔の話。
「僕はあんたを許さない」
少年は一人の男を睨みつけた。
男は高校生くらいの風貌で、学生服を着ていた。真っ黒の学ラン。
男の名前を、少年は知っていた。
「神崎!」
純真無垢な子供は、時に残酷で、だからこそ美しい。悲しい。神崎は静かに、精一杯の睨みを、冷ややかに見つめ返した。
「その猫、俺は殺してない」
そう、少年の腕の中に抱えられえ、もう既に事切れている猫。血を流している。それも大量に。ナイフか何かで刺された後があった。
「嘘だ! 僕はあんた以外に教えてない! しかもあんたは、猫が嫌いだと言った」
「それは認めよう。でも、違う。俺じゃない」
「うるさい!」
少年は猫をぎゅっと抱きしめた。
神崎は空を仰いだ。空からはぽつり、ぽつりと雨が降ってきていた。これは、猫の涙だ。そう思って、少年の突き出したナイフを腹に受けた。
神崎の体がぐらりと揺れ、少年は息を荒くして後退った。
「この猫が、僕の全てだったんだ。この猫が死ぬことは、僕が死ぬことだ」
肩で息をしながら、少年は叫んだ。神崎は雨に流される血を、手に纏わりつく血を見つめた。これは、何だ?
――ああそうだ。これは神の過ちだ。
「……その猫は、君が、殺したんだ、ろう?」
「何、言って……」
少年はナイフをぎゅっと握り締めた。神崎は苦しそうにぜいぜいと息を吐きながら、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
「君は、神様なんだろう。猫を、殺して、自分も、死ぬ。そう、すること、で、この世界から、消えたかったんだ。一人で消えるには、心残りなこと、が、猫が、いた、から」
神崎は、霞む意識の中、微かに笑った。
「神様の、『大切なもの』に、なれて、よかった……よ」
――この微笑みは、神の希望。
「この微笑が、君の希望になりますように……」
少年は、泣いていた。
――雨が、一層増して、少年を、神崎を、猫を濡らした。
てをつなごう。 Side Episod 3/15(土)
「それ、猫?」
神崎はその日、猫を拾った。どうしようかと迷っていると、少年が後ろから、声をかけた。
「猫だよ」
「お兄ちゃんの?」
「いいや」
「僕にも触らせて」
頷くと、恐る恐る、少年は手を伸ばした。汚れた毛を丁寧に撫でると、猫がごろごろと喉を鳴らした。
少年は神崎に名前を尋ねた。神崎隼人だと答えると、神崎さん、と少年は呼んだ。
「また、ここに来て。僕もここに来る。猫のおうちは、ここにしよう」
少年はにこやかに笑いながら、そう言った。
次の日、神崎がそこに行ってみると、キャットフードが置かれていた。その近くには、少年の姿。
「神崎さんは、猫、触らないの?」
「猫は、あまり好きじゃない」
「どうして?」
「昔、噛まれたからかな」
神崎が笑うと、少年もおかしそうに笑った。
太陽が地面を照りつける日も、雨が降る日も、雷がなる日も、二人と一匹はそこにいた。なぜか、そこが自分達の居場所になっていた。
神崎が、学校がどんなに遅くなっても、いつでも少年はそこにいた。
いることに、神崎は安堵する。
いついなくなるのか。そう思うと不安になる。それはどういうことだろうと神崎は考える。
結局、神崎は今の居場所が、とても大好きだということ以外に思い当たらなかった。
――なあ、こんな話、聞いたことないか?
――何?
――太陽は、神様の喜びだって。
――……もちろん、知ってるよ。僕はそれを信じてる。
――本当に?
――うん。
かみさまがきえたら、せかいはおわってしまうことを、ぼくはしっている。
にゃあ、と鳴いた猫の話 2/17(日)
猫は家の裏にいた。
猫はそこで縮こまっていた。
猫は黒猫だった。
猫は不吉を呼ぶ黒猫だった。
猫は逃げ出した。
猫を追いかけた。
猫は立ち止まって振り返った。
猫に餌を与えた。
猫は嬉しそうに魚を食べた。
猫は次の日も来た。
猫はその次の日も来た。
猫に餌を与え続けた。
猫はある日、餌を貰えなくなった。
猫はその日、主人の死を知った。
猫は初めて、悲しんだ。
猫は初めて、主人の命を食べていたことに気づいた。
猫は悲しんだ。
猫は泣いた。
猫は嘆いた。
猫は慟哭した。
猫は自分を責めた。
猫は主人に謝った。
猫は路上の花を毎日、その家へ届けた。
猫の命尽きるまで。
ずっと。ずっと。ずっと。
主人が、そうしてくれたように。
猫は空腹で倒れた。
猫は空を見上げた。
猫は雨を、涙と勘違いした。
猫は、
にゃあと鳴いて、それで、終わり。
あなたが愛してくれたらね 2/17(日)
「ねえ、ユー君」
「……何」
「ユー君はさ、死にたいって思ったこと、ある?」
「何の話」
「いや。ただ、あるのかなー、ってだけ……」
「眠いなら、寝れば」
「ねえ、答えてよ」
「……あるよ。挫折すれば人間は、大抵死にたいって思うんじゃねえの。例え嘘でも、死ぬ勇気なんてあるはずないって、わかってても」
「そうだよね。嘘だよね、みぃんな、嘘」
「……寝ろよ」
「私を好きな気持ちも、嘘でしょう? そうでしょう。あんなに優しく抱いてくれるのにね。わかるのよ。女の勘って鋭いの」
「もう、いいだろ」
「嘘で愛するくらいなら、そんな女、捨てちゃった方がいいよ。同情するくらいなら、捨てられた方がいいって、その女は言う。望んでる」
「……同情、ね」
「なあに」
「同情で付き合ってるわけでも、抱いてるわけでもない」
「じゃあなんであたしに構うの」
「わかんないからだよ」
「なにそれ」
「わかんない。どうして捨てたくないのか。わかんないから、わかるまで、一緒にいるよ」
「……みぃんな、嘘だよ」
「嘘かも知れない」
「……何、ソレ」
「死にたいなんて思うの、しょっちゅうだよ。でも、誰かを愛したいと思うのは、しょっちゅうじゃないから、信じてみようと……思って」
「自分の気持ちを?」
「うん」
「……なに、それ」
「もういいだろ。もう寝ろよ、俺も眠い」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
「……私、死にたくないかもしれない」

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