彼女がまた癇癪を起こしている。
髪を掻き毟り、頭皮から血が流れると、その場にあったおもちゃを狂ったように壁に投げ出す。壁にぶち当たったおもちゃたちは無残にも割れ、欠け、時には粉々に砕ける。そしてその次の日には、憂鬱な顔つきで掃除をする彼女がいるのだ。
昔から、らしい。
イライラしたり、絶望に打ちひしがれたりすると、必ず彼女は癇癪を起こすのだ。まだ高校生とはとは言え、学校で問題を起こされるのは嫌だと、親は高校に行くことを反対していたらしい。
彼女が高校に行くことになったのは、半ば俺のせい、と言ってもいい。
簡単なことだ。俺が、「俺は高校に行くよ」と言ったからである。彼女は「じゃあ、私も高校に行く! 君と同じ高校に行く!」と、嬉しそうに言った。親は俺のことをどう思っているのか知らないが、俺は別に彼女がついてこようときまいと、あまり関係のないことだった。
そして俺と彼女は、同じ高校の試験に受かり、晴れて高校一年生となったのだ。
別に、彼女は頭がよかったから当然のことだ。けれど、入学すると、いろいろと忙しくなるため、もう連絡しあう暇もなくなるだろうなと、「受かったぞ!」というだけの簡潔なメールに「よかったな。俺も受かった」という同じく簡潔なメールを返した時はそう思っていた。
しかし、予想外のことが起きた。
彼女は、俺と同じクラスだったのだ。
「あ、セツ! よかったね、同じクラスになれて!」
彼女は嬉しそうに、教室に入ってきた途端に俺にそう言いながら駆け寄ってきた。俺は空返事をしながら、どのくらいの確率だろう、とぼんやり思った。
ただ、たまにメールの交換をしあうだけの、何でもない存在。同じ学年の、同じクラスの女子。癇癪を起こすと別人になってしまう女。……俺に、気がある女。
そんな印象だった。それだけの印象しかなかった。ただ、「気がある女」としては、少し意識したことがある。彼女の口から直接そう言われたわけではない。しかし俺は確信を持っていた。オーラというか、雰囲気というか……上手くいえないが、彼女には『俺用』みたいな『対俺』の彼女がいるのだ。
「ねえセツ。今日一緒に部活行かない?」
「別にいいけど」
俺はそう返事をして、教科書やらノートやらを鞄の中に詰め込んだ。俺と彼女は、美術部に所属している。彼女だけ、ならまだわかるが、俺も美術部だと言うと必ず驚かれる。
本当は、俺が先に入部届を出して、それから彼女も追うように出したんだけど。
誰も信じてくれないのが、実はちょっと悲しかったりする。
俺と彼女は、廊下を歩きながら、他愛のない話をしていた。すると、不意に彼女が足を止めた。
「ねえ、セツ」
彼女はまっすぐ俺を見つめていた。
――廊下を行き交う生徒はほとんどいない。いたとしても小走りで先生を探していたり、恐らく先生から頼まれたのであろう荷物を抱えていたりして、暇そうな人はあまりいなかった。だとしたら、部活に急ぐわけでもなく、のんびりと歩いている俺たちは暇そうに見えるのだろうな、とちょっと思った。
「セツは、考えたことある?」
「何を」
「怒り、絶望、悲しみ。そんなマイナスの感情全てを、私は痛みで相殺してしまうの」
俺は何も言わず、彼女の言葉の続きを促した。
「肉体的な痛みもそうだし、精神的な痛みもそう。自分を傷つけて、自分の大好きなものを壊して、怒りや絶望、悲しみを消すの。後に残るのは、虚無感だけ。何も感じないの」
「……苦しく、ないのか?」
大好きなものを壊して。自分自身を、自分の手で傷つけて。
「うん。その時は何も考えられなくなるから、苦しくないの。でも、次の日になって冷静になるとね、すっごく後悔するの。傷ついた体を見たり、でも何より……壊れたおもちゃを見ていると苦しくなるの。すっごくすっごく、嫌になるの。自分が」
彼女の声は震えていた。涙が瞳にたまっていた。
「セツは、考えたことある? そんな私が、君を好きだってことを」
考えたこと、あるよ。だって俺、気づいてたもん。
「俺」
それしか言えない。
「…………いいよ」
「……へ?」
彼女が驚いたように瞠目する。
「いいよ。付き合ってやる」
俺は彼女から目を逸らしながら答えた。なんとなく、照れ臭かったからだ。
「ありがとう!」
彼女は嬉しそうに言うと、俺に飛びついてきた。廊下でそんなことをされてはたまらないので、俺はそれをかわしながら美術室へと足を運んだ。なるべく早足で。
それから一ヶ月経った時、俺は彼女の何回目かの癇癪を目にした。
学校では俺がいるからかわからないが、癇癪を起こさない。しかし、その日は休日で、彼女の家に遊びに来ていた。彼女の部屋は非常に女の子らしい部屋だったが、壁紙は傷つき、所々に人形の綿が散らかっていたり、何かのおもちゃの欠片が落ちていたりして、頻繁に彼女が暴れているのがわかった。
「掃除機くらい、かけさせてくれればよかったのに。何も、すぐに来ることないじゃない……」
彼女は泣きそうな顔でそんなことを言っていた。今から行くと電話してから、彼女が掃除機かけるから待って、という声を無視し、俺はすぐに彼女の家へ行ったのだ。
「だって、俺あまり家にいると親が勉強しろ勉強しろってうるさいから」
「もう、セツの馬鹿」
彼女は頬を膨らませて悪態をつく。
「……それにしても、意外に女の子っぽい部屋なんだな」
俺が感心して言うと、彼女は表情を消した。
「……ねえ、何、それ。私の部屋は、部屋中壊れたおもちゃで散らかってるって……思ったの?」
「そんなことは言ってねえって」
「だって!」
彼女は泣きそうな顔で叫んだ。必死な表情だが、どうして彼女がそんな顔をしているのか俺にはわからなかった。俺はただ普通に、思ったことを口にしたまでだ。どうして責められなければいけないのだろう。
「だって、私こんななんだもん! 不安になるの! いつだって不安なの! 本当は、セツが面倒な女と付き合っちゃったな、なんて思ってないか……重い女だ、って思ってないか……」
俺は閉口した。
重い女だ、と思っていたのは本当だったからだ。別に面倒だとは思っていない。俺に被害が及んではいなかったからだ。でも、こんな風に、いちいち自分の癇癪のことを持ち出して勝手に悲観にくれるのは、正直イライラした。時々、俺に否定して欲しくて、同情して欲しくてそんなことを言っているのかと勘繰ってしまうこともあった。
「……セツ、あたしもう嫌」
「何が嫌なんだよ。お前、そう言って逃げてるだけじゃん。前と何も変わらない」
「何で、そんな風に言うの。あたしだって頑張ってるよ、あたしだって……!!」
彼女は指を髪の中に滑り込ませた。髪を掻き毟る気だ。
俺は彼女の両手を掴んだ。
「怒りから、絶望から、悲しみから逃げるな! お前、世界で一番自分が不幸だとか思って勘違いしてんじゃねえだろうな。お前、自分で逃げて自分を不幸にしてるだけなんだよ!」
厳しいことを言っていると思った。
酷い言葉を口にしていると思った。
彼女が苦しんでいたのは本当だからだ。逃げているばかりの自分が嫌なのに、変えることができない自分はもっと嫌で、どう足掻いても結局同じ結果にしかならない自分が嫌だったのだ。それを俺は、わかっていながら無責任な言葉で責めようとしている。
――不意に、ふっと悲しくなった。
「…………ごめん」
俺はそう言うと、彼女の手を開放した。そして、彼女を思い切り抱き寄せた。
彼女の顔は見えない。けれど、力いっぱい、抱きしめた。
「セツ、セツ……あたしっ……」
――――――ぐさ、という音はしなかった。当たり前だが。
ただ、脇腹に突如、激痛が走った。
それは立っていられないほどの痛みだった。膝をついて、腹を押さえる。ぽたぽたと、赤い鮮血が滴る。手だけではなく、視界すら赤く染まっていくような気がした。
刺された。
ただ、それだけが頭の中でループした。刺された、彼女に刺された。刺された、刺された、刺された。
ふと、彼女を見上げると、彼女は果物ナイフを持ったまま、放心していた。それからゆっくり俺を見下ろすと、掠れた、消え入りそうな声で「……ぁ」と声を出した。
「あ……あ……あぁぁぁぁっ…………!」
彼女は錯乱した。ナイフを投げ出し、その場にへたり込み、首をぶんぶんと振る。頭を押さえて、ただ、激しく横に振る。
「セツ、セツ、セツ…………!」
俺の名前を、狂ったように叫ぶ。俺は彼女に手を伸ばした。頬に軽く触れる。彼女の頬が血で赤く染まった。よく見れば、彼女の服にも俺の返り血がついている。
何て、可哀想なんだろう。
こうして一つずつ、大事なものを失っていくんだ。
そしてそれは壊れたおもちゃと成り果てる。
――――いや。
俺は、どんどん遠のいていく意識の中、漠然と思った。
おもちゃは、彼女だ。
彼女こそが、壊れた玩具なんだ。

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