俺は二人と別れると、別にどこに行くこともなく歩いた。
 本当ならもっと話していたかった。暇を持て余すためには、テニスは少々物足りないのだ。しかし、私利私欲のために、折角のプチデートを邪魔する気にもなれない。
 どうせなら、先程の罪滅ぼしのために、真面目にテニスを見て勉強しようかと、いろんなコートに目を配りながら歩いていくと、一際大きな歓声が聞こえてきた。
「……何だろ」
 俺がそのコートに近づくと、そこでは男子の試合が行われていた。
「ナイスボール! ナイスボール! ナーイスボールっ!!」
「ドンマイ、落ち着け!」
 どちらも互角のようで、長く打ち合いが続いている。
 一方は市役所、もう一方は電気製品会社のようだ。
「うわ、ボールに目が追いつかねー」
 打ったと思ったら相手が打ち返している。な、何だか軽く目が回ってきた。
 これが、社会人のテニス。俺が今まで見てきたどんな試合よりすごい。ただ球の速さだけじゃなく、技術もそうだし、応援だって……。
 このコートは活気にあふれている。いや、このテニスコート、十六面もあるテニスコート全てが、活気で満ちている。中学生のテニスに熱気や活気がないのではない。見た事が無いだけだ。
 見た事の無いものが目の前にあるとき、大抵の人は少なからず興奮するものだ。
「あ、決めた」
 際どいコースを狙って打った球が、相手のラケットに一つも触れずに、しっかりとコートに入って後ろの壁に当たる。
 そして歓声が起こる。決めた瞬間、ベンチに座っていた同じチームの人が一気に立ち上がり、両手を挙げてガッツポーズをしたり……拍手をしている人も居る。
 本気の戦いって、こういうものなんだ。本当に真剣に、そして、楽しそうに……―――
 俺はいつの間にか試合に見入ってしまい、拳をぎゅっと握り締めていた。そしてどちらかが決めるたびに、ドキッとする。
 心が疼いた。ゾクゾクした。こんなのは初めてだ。
 その瞬間、ネットギリギリに立っていた市役所チームの人が、ボールを勢いよくボレーした。
 バシッ、といい音を立てて決まったボレーは、俺の心の中にまで入ってしまったみたいだった。
 歓声など、遠くなってしまったように小さくしか聞こえない。今自分の聴覚を支配しているのは、ドクンドクン、と高鳴る、自分の胸の鼓動だった。
 俺は、こんな風に……
 自分があんな風に決める姿を想像してみた。また鼓動が高鳴る。自分でもよく分からない感情だった。ただ、とても気持ちがいい。自分があの人みたいに格好よく決めるのは、とても気持ちがいい―――
「………………」
 どうやら今のポイントがマッチポイントだったらしく、勝った二人がハイタッチをして喜んでいる。
「………………」
 団体戦だったらしく、最後に両チームの選手全員がネットの前に集まり、「ありがとうございました」と口々に言う。
「…………かっこいい…………」
 俺は、デジカメを構えると、夢中でシャッターを押した。
 最後の一ポイントを決めた市役所の人、そしてその人と組んでいたパートナー。それから肩を叩いて「よくやったな」と言う同じチームの人たち、負けてしまったのに、僅かに悔しそうな表情をしながらも笑んでいる人。
 女子の試合も、しっかりと見ていれば同じように感じたのだろう。人ばかり見ていて、こんなに小さいコートの中で、こんなに大きいドラマが展開されているとは、まさか思いもしなかったのだ。
 格好いいと思った。そして、自分もこんな風になりたいと思った。
 勝利して、仲間と抱き合いながら喜んだり、負けたけどいい試合だった、と笑ったり、そんな風に俺もなりたいと思った。
 そして、そうなるにはやはり、球拾いから始めなければならないのだ。
 まず、初めの一歩を踏み出さないといけない。彼らもきっと、一歩目から始めたのだろう。
 俺の一歩目は、球拾い。ただ、それだけの話だ。
「もう、二度と……」
 もう二度と、弱小チームなんて呼ばせるものか。俺が呼べないようにしてやる。この手で、腕で、足で、心で、弱小なんて言葉似合わないテニス部にしてやる。
 俺はそう決意して、暑さで滲み出る汗を気にも留めずに、シャッターを押し続けた。

「ねぇ、しんちゃん?」
「うぇ」
 聞きなれない呼び方に、思わず鳥肌が立つ。
 俺があの試合を見てからたっぷり一時間後、家に戻って来た俺は、抜かした朝食の分もまとめて、昼食を食べていた。
 向かいには、模試を終えて帰ってきた兄がノートパソコンを弄っている。
「しんちゃんは、こういう趣味だったのねぇ」
「は?」
 俺が意味がわからないといった風に母を見ると、母は怪しい笑みを浮かべて、デジカメに写る、俺の撮った写真を見せた。
「しんちゃんは、男の子が趣味だったのねぇ」
「…………は?」
 数秒たって、俺はその意味を理解した。
「うわっ、違うって、何誤解してんだよ! 大体男の子っていう年じゃないだろっ。って、そういうことじゃなくてっ」
 あまり見当違いな事を言われて、かなり動揺してしまう俺。まあ、冷静に否定したところで素直に「あら、そうなの」と聴く人ではないのはわかっているが。
「だぁ〜いじょぉ〜ぶ。お母さんだってこの人、結構好みだもの」
「顔の話でもなくて!」
 必死に叫んで否定していると、いつも無気力そうな表情をしている兄が唇の端を吊り上げて面白そうに口を出した。
「何、晋太郎ってホ」
「あー、あー、あー、あー、違ぁぁうぅぅー!!」
 兄にまで誤解されてたまるかと叫ばんばかりに力いっぱい否定する。兄は「ふーん」と言っているものの、まだニヤけている。
「お母さんはしんたろーがそういう趣味でも大丈夫よ? だから、しっかりいい男捜しなさいね」
「結局自分がいい思いしたいんだろうがっ……じゃなくて、俺は野郎なんか好きじゃねぇっ!」
「ホントに母さんは大丈夫よ〜? 意地悪してパパに言ったりしないし」
 当たり前だ、言ったら父さんに母さんが男漁りしてたって事バラしてやる!
「俺がバラすかもな」
 兄がまたもパソコンのディスプレイから目を離し、俺に言う。
「そんなことしたら、兄ちゃんがエロ本ベッドの下に隠してること言ってやる!」
「何だ、年頃の男子がエロ本を持っちゃいけないのか」
 駄目だ、兄貴にはまるで羞恥心や常識と言うものがない!!
「しんたろー! 私は見捨てないわよ、例えあなたがホ」
「言うな、それ以上言うなー!! 違うっていうとるにー!」
 一旦思い込むと、考えを変えない。それが俺の母だ。
 逆ナンの経験豊富で、自分を美女だの麗しいだの十人に一人の逸材だなどと豪語して、いつも素直で率直でどこかズレている、俺の母親なのだ。
 俺は諦めて頭を振った。
「……なぁ、母さん」
 俺は箸を綺麗に食べ終わった皿の上に置いた。
「なぁに、しんたろー?」
「……俺、やっぱテニス続けることにする」
 俺がそういうと、母はにっこり笑った。
「当たり前よ。ゆったでしょ、やめることは許さない、って」
「……そうだね」
 皿を持って、台所の蛇口の下に置く。
「レギュラーに絶対なってやる。俺、頑張るよ」
 今度は嘘じゃない。逃げるような嘘ではない。本当に、本気でそう思って言っているのだ。二人にだって、今は胸を張って言える。
「三日坊主になるなよ」
 兄が先程とは全く違う、優しい笑みを浮かべる。
「そう。頑張りなさいね。…………パートナーは、カッコイイ子だといいわねっ!」
 やっぱりどこかズレているが、それでいいのだ。母はズレていて、それでこそ母なのだから。
 俺は素直に「うん」と言った。
 そしてラケットを持つと、外で素振りをしようとテニスシューズを履いた。



 とある、真夏の昼下がり。