怖くなった。
 そう、怖くなったというのが母を亡くした私の率直な感想だ。
 母の死にひとしきり泣いてひとしきり落ち込んだ後、唐突に怖くなった。大切な人っていうのは、こうもあっけなく死んでしまうものなんだ。酔っ払い運転をしていたどこの誰ともわからないようなやつに簡単に持っていかれちゃうほど、命って壊れやすくて繊細で、弱いものなんだ。
 広樹はどうなんだろう。
 広樹は物静かで、口をあまり開こうとしない。喋らないってわけじゃないけど、口数は極端に少ない。お姉ちゃんとは大違いだねってみんな言う。そのたびにどうせお姉ちゃんはおしゃべり好きでうるさい奴ですよ、なんて心の中でぶちぶち言っていたりするのだが私自身も私とは大違いなんだなって思う。
 だから、余計に不安になるんだ。
 広樹が急にいなくなっちゃったらどうしようって。
 今まで邪険にしたことは幾度となくあっても心配することなんて、絶対になかったのに。



 小さい頃からうるさいうるさい少しは黙れと言われ続けてきた私とは対照的に、弘樹は親や近所のおばちゃんたちに評判がよかった。道端で向かいの家の遠野さんに会えばいい子だねこれあげようと飴玉を貰ってきたし、転んでしまったらたとえかすり傷でも大いに心配されていた。
 それを当時の私は内心気に入らないと考えながら過ごしていた。
 何も喋らないって便利だ。ずるい。だって、私は反応がない弟にこんなにイライラするのにそれをみんなはいい子だと言ってちやほやするんだから。私には早々に「きかない子」ってレッテルを貼るくせに。
 広樹は全然いい子なんかじゃない。嫌だとか面倒だとか思っても何も言わないだけだ。表に出さないだけ、出せないだけ。私は自分に正直に生きてるだけなのに。
 ――そういうことで、私は広樹があまり好きではなかった。年の差は二つ。ジェネレーションギャップを感じるほどの年の差があるわけでもないのに広樹は私の言葉にあまり反応しない。広樹だって同じテレビを見て同じように授業を受けて同じ帰り道を歩いてるはずなのに。
「ねえ、広樹、あんたももう中学生なんだからさ、もうちょっとはっきりものを言ったらどうなの。もう小学校でのルールが通用する世界じゃないんだよ」
 何度か、苛立ちに身を任せて怒鳴ったことがある。
「そんなんじゃいつか消えちゃうよ。あんたがいること、誰も気づかなくなっちゃうよ」
 それから二年経った今も、実は同じように思っているけど。
 とにかく、私は自分が放った「消えちゃう」という言葉に自分で二年越しに反応してしまった。急に怖くなってそわそわして、口数が極端に少ない広樹がちゃんと傍にいるか何度も何度も確認した。
 意味もなく広樹の部屋に行ったり、メールを送ってみたり、広樹のいるクラスを覗いてみたり。広樹も恐らく私のことを異常だとかどうしちゃったんだろうとか思ってると思うけど、何も言わない。こういう時は広樹の寡黙さに助けられたって思う。私も、弟にストーカー呼ばわりされたら、さすがにショックだから。
 しかし、広樹は堪りかねたのか、私が不安に駆られてから三週間後、ようやく私のメールに空メール以外の返信をくれた。
『どうしたの?』
 この一言は今のメールの意味を問うことではないことぐらいわかる。これまで三週間の私のストーカー的とも言える行為に対しての問いかけだ。
 私はそのメールには返信せず、すぐに自転車をこいで自宅へ向かった。もう時計は七時を回っていて暗い。広樹は帰宅部だからとっくに家にいるはずだ。
 自転車のライトが点いているかさりげなく確認しながら、私はなるべく安全運転で家へ向かった。車が横を通り過ぎるたびびくびくしながら走った。何やってるんだろうって、この時改めて強く思った。私、何やってるんだろう。

「広樹」
 帰るなり広樹を部屋に呼び出して正直に話した。お母さんが死んで、あんたも消えちゃうんじゃないかと思って。それだけですむ話を、おしゃべり好きのくせに自分の気持ちを言葉にするのが苦手な私は丸々三分かけて話をした。
 広樹はじっと聞いている。
 しかし、話し終えても何も言わない広樹を見ていると、表面上は無表情を装っていて、実はかなり呆れているんじゃないかと思えてきて、沸々と怒りがこみ上げてきた。酷く悲しみに近い怒りだった。
「……広樹はさ、私がいなくても寂しくないでしょ」
 広樹はそんな私のお門違いの怒りも、黙って聞いている。
「私は広樹がいなくなれば……多分、寂しい」
 そっと広樹の表情を窺うと、広樹は珍しく眉を吊り上げていた。そんな広樹の表情などついぞと見たことがなかったから、私は動揺して何も言えなくなった。本当はもっといっぱい言葉を用意していたけど。
「嘘だ」
 広樹はそう言った。はっきりと私の言葉を、否定した。
「僕がいなくなっても、姉ちゃんは気づきもしないんだ」
 それだけ言うと、また貝のように黙ってしまった。
 私はなんだか混乱して、一度頭を整理しようと軽く頭を振る。何だって? 広樹がいなくなっても私は気づかないで普段どおりの生活を送っていると?
「馬鹿ね」
 私は弱々しくかぶりを振った。
 多分、母の死という衝撃的な出来事がなかったら、私はその広樹の言葉に頷いてしまっていたかも知れない。
「広樹が何も言わないから私はあんたの分まで喋ってるのよ。昔からそうだったじゃない。何もかも私が代わりに話してあげてた。そのせいで私はおしゃべりみたいに言われてたけど」
 広樹は首を傾げることもせず、じっと私の声に耳を傾けている。
「今ここで急に広樹がいなくなったら、私どうしたらいいの。喋ること一気に半減しちゃうよ。そしたら私は私じゃいられなくなっちゃうじゃん。おしゃべりじゃない私なんて、私じゃないもん」
 我ながら支離滅裂なことを言っているなあという自覚はあった。でも、広樹がいなくなったら寂しいと思うだろうと考えたのは本当だ。広樹がいて、そこに静寂があって、初めて私の“騒”が際立つ。
 広樹も同じだ。
 騒がしさがあってこそ静寂というのは際立つ。騒がしさがあって初めてそこにあるのは静寂だと気づく。私がやんちゃなきかん坊だったから余計に広樹は目立ち、もてはやされた。私たちはコインの裏と表のように互いを引き立てあって生きてきた。
 ねえ、広樹は私のことが嫌い?
 私がいなくなって、寂しいと思う?
 そんなことは、怖くて聞けなかったけど。
 ――私は突然胸に突き上げた衝動に突き動かされて、本当に発作的に、広樹を抱きしめた。抵抗をしないのをいいことに、抱きしめた。指先が震えて涙が出てきた。これは本当に、不安のせいなのかな。
 きっと、違うね。
「……僕も、」
 ぎゅうと何も言わずに抱きしめていると、広樹が小さな、小さな声で何事かを呟いた。
「僕も、姉ちゃんがいなくなると、寂しいよ」
 そして広樹は、私の背に、そっと、
 手を回した。