月が笑っているように見えた。
 由依が見上げた月は、自分を嘲笑っているように見えて、由依は溜め息をひとつ零す。そう見えたにも関わらず、それがあまりに美しいので、そこから星が降ってくるかもしれない、とも思った。今の溜め息は月にすら見放されたという嘆きなのか、感嘆の溜め息なのか、それすら今の由依にはわからなかった。
 ――恋煩い、なんて、人は簡単に言うけれど。
 そんなに可愛いものじゃない。なぜなら、由依の中で“彼”は人間の域を越えている。彼は人間ではない。生物学上でいけば人間なのだけど、“彼”は人間にないものを持っていて、人間にある決定的なものが欠如している。
 “彼”を見ると、この世が全てまやかしであるように思えてくる。そして、今立っている地すら今にも崩れそうだという錯覚に陥るのだ。彼には魔力がある。いや、魔力、という安易な言葉で片付けてしまえるものではなかった。
 “彼”は、そう、言うなれば――。



「あの」
 思い切って話し掛けると、彼は振り向いた。
「何」
 という簡潔な答えが返ってきた。由依はわけもなく緊張し、拳を軽く握り締めた。顔も言葉も普通の男子と変わらないのに、彼にはなぜか常に妖艶さが付き纏う。そして、恐怖。
「松中先生が呼んでたよ」
 そう言うと、彼はふっと笑った。
 松中先生は担任だ。由依が、職員室に用事があって入ったところ、松中先生に呼び止められ、彼を呼んでくるように言われたのだ。由依は期待、高揚、そして恐怖を抱きながら彼を呼びに来たわけだ。
 彼は椅子を引いて緩慢な動作で立ち上がった。流れるようだ、と思ったのは、その動きはゆっくりではあったが、だるそうな感じはなかったからかも知れない。
「またお小言かな」
 微笑を顔にたたえたままそう言う彼はやはり人間ではなかった。
「そんなはず……」
 ないじゃない、という言葉が続けられなかった。唇が震えそうになり、ぎゅっと強く引き結ぶ。彼は頭も生活態度もいいから小言や説教なんてしたくてもできないじゃない、という言葉を言いたい。でも、彼の微笑を見たら言葉が消えてしまった。彼の微笑は世界を嗤っているようであった。
 彼は数歩進むと、急に後ろを振り返り、
「ありがとう」
 と、思い出したように言った。
 由依は軽く頷いただけだった。それしかできなかったのである。ドキドキと胸が高鳴っている。愛しさなのか、恐怖なのかわからない。どちらにしても、自分が高揚していることは確かだった。
 どうして、怖いのにここまで彼のことを好きになれるのだろう。由依はずっとそればかり自問している。変な性癖があるわけでもない。ただ、彼への恐怖はまるで麻薬のように、脳髄に甘く響くのだ。そして最高の麻薬は中毒になる。手放せなくなる。気づけばそれのことばかり考えるようになる。
 好き。愛してる。一生傍にいたい。どれも何か違う気がする。恋というより、執着という言葉の方がしっくりくる。由依はそれを自覚しておきながら、“彼”から離れることができないのだ。

「ねえ」
 と、話し掛けたのは由依ではない。
 ――“彼”だ。
 あの時のように、妖艶な微笑を見せる。由依はその微笑に魅せられる。
「……何」
 いきなりのことで、驚いた様子を見せないようになるべく平静を装う。
「君、俺と付き合いたいの?」
 心臓が跳ねる。
 どうなんだろう。
 恋とは違う。それが自分の出した結論。だけれど、断る言葉など頭になかった。自分の選択肢に、その選択はなかった。じゃあ付き合いたいのか? わからない。
「俺が、怖いんでしょ?」
「……っ」
 返答に詰まる。
 わかってたのか。
 “彼”は全てわかっていたのだ。
 由依が彼に恐怖を感じることも、由依が彼に執着を持っていることも。
「私は、私はッ」
 悔しくて、何か反論しようと思うも、言葉が出てこない。自分は失語症なのではないかと疑った時もあったが、そうじゃない。彼の微笑が言葉を失わせているのだ。
 不意に、泣きたくなった。
 こうやって壊れてしまうのかと思ったのだ。
 言葉を失った私を見て、彼は初めて微笑を顔から消した。由依はそれに驚き、動揺したが、もうどうしようもなかった。恥ずかしかった。できることならここから逃げ出したかったが、“彼”を前にして足が自分の思い通りに動いてくれるはずもなく、結局涙は零れ落ちた。
 頬を伝う。濡れた頬に、彼は指を触れさせた。
 顔を近づける。

 その口付けは、
 悪魔のものだった。

 “彼”は何も言わず、踵を返し、歩いていってしまった。由依は呆然とそれを見つめる。
 悪魔のキスが甘く全身を侵し、その痺れに浸りながら、由依はそっと指で唇に触れた。麻薬は全身に一瞬で回り、中毒となって由依は自分の足を動かす。もちろん、“彼”を追うためである。
 恋愛感情ではない。だけれど、由依は完全に彼に惹かれていた。もうそれを手放せなくなっていた。彼が自分のことを好きなのかは最早関係ない。少しでも自分で遊んでやろうと考えたなら、まんまとその罠に嵌るのもいい。というか、彼が放つ恐怖に陶酔した時点でとっくに罠に嵌っているのだ。

 月は今日も笑っていた。
 麻薬中毒になった由依を嗤っていた。
 由依はそれさえも愛しいと思った。

 悪魔に堕ちた証拠である。